ミャンマー旅日記(全文) | アンダーグラフ OFFICIAL BLOG「Member's Diary」Powered by アメブロ

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初日


21日の夜に、ミャンマーに向けて、出発。


前日までが、怒涛のスケジュールだったので、殆んど何も用意はしてなかったのだが、体調だけ気を付けたら何とかなるかと、薬関係を充実させ、飛行機に乗り込んだ。



羽田からバンコクを経由してのミャンマー入りの約10時間の旅。

バンコク発ヤンゴン行きの飛行機を待っている間、理事長の細川佳代子さんと一時間ぐらいお話をさせて頂いた。


そもそもどうして海外への支援を始めたのか?という僕の質問に対しての答えがとても興味深かった。


「自身が幼かった頃、海外からの支援が沢山あり、特に給食などは殆んどが支援で、それを食べて私たちの世代は大きくなったので、大人になったら、逆に困っている子供達に支援してあげたい」という思い。



ミャンマーという国に決められた理由も「勤勉で真面目な国民性で、世界様々な国を訪れたが一円たりとも無駄にしないだろう。」というそんな思い。


世界各国を実際に見て周った細川さんの言葉だからこそ説得力があった。
支援を続けて18年、その想いも色々とお話してくれた。


ヤンゴン空港に無事到着し、沢山の現地のスタッフさんにお迎え頂き、さぁミャンマーを感じようと思った矢先、同行しているカメラマンのスーツケースがない。


誰かが、間違って持っていってしまったようで、空港にはポツンとカメラマンさんのスーツケースと全く同じ色、同じ形、のスーツケースが残っていた。

後に無事スーツケースは帰ってくるのだが、
こんな事、本当にあるんだな、といきなり波乱万丈を感じた。

空港を出て先ず思った事は。「暑い。とにかく暑い。肌がじりじりと痛い。」


ホテルに着き、部屋に入れたのは、約5分。


昼食はミャンマーカレー。

タイのグリーンカレーの用な辛さはなく、どちらかと言えば甘さがあるとても美味しいカレーだった。

ミャンマーでは生水は完全に飲み水としては適しておらず、歯磨きさえもミネラルウォーターで、カットされているフルーツも避けたほうが良いとスタッフに教えられていたので、それだけは忠実に守った。


旅行で行くのならあまり気にはしなかっただろうが、今回は全く違う。少しでも迷惑をかけないようにと、なるべく油ものを避け、
水は全てミネラルウォーターを飲んだ。


ちなみに水は1リットルのペットボトルで日本円で15円ぐらい。

そしてそこから、ユニセフ、JICA.、日本大使館、などを表敬訪問。ミャンマーの今の状況や、事情を話してくださった。


後にも分かる事だが、何処に言っても凄い歓迎をしてくれ、「来てくれてありがとう、心から感謝しています」と頭を下げてくれていた。


細川さんが改めて続ける事の意味であったり、改めてワクチンへの思いを語られているのを聞いて、僕が3年前、リアルな団体だと信じ電話したJCVという民間の団体が、その通りであった事を実感した。


全ての訪問を終え、ホテルに戻り、夕食に向けて、ギターを練習した。

そう、突然、夕食を食べるレストランで歌う事になったのだ。


ミャンマーの学生達が、ミャンマーの伝統的な踊りを何組かに分かれ披露し、その踊りを見ながら、食事を楽しむというお店。


現地のコーディネーターさん(チョーさん)に歌ってみるかい?と聞かれ、思わず「ハイ」と。


こじんまりしたカフェのようなレストランを想像していたのだが、なんのその。とてもとても広いレストランで、


軽はずみで「ハイ」と言ってしまったのを後悔しかけたが、やるしかないと思い、ロンジーに着替え、食事そっちのけで、急遽「上を向いて歩こう」そして、「人」を様々な国の方が食事を楽しんでいる中、何故か、ミャンマーの学生の方が僕の後ろに6人程立ち、不思議な雰囲気の中歌い切った。


ホテルに戻り、明朝5時半起きという怒涛のスケジュールに向けて眠りに着いた。


ホテル近くにはギターを弾きながら歌う青年とその友達が一緒に歌っているという場面にも出会えた


追記 
初日に感じた事
日本製の車が殆どで驚いた。なかには「ホリデー車検」とおおきく日本語で書かれたままのバスも走っている。
正直、全てがとても整っているとは思わなかったが、僕が想像していたよりも遥かに都会で綺麗な建物が沢山あった。携帯もスマートフォンを持っている人もいるぐらい。
ロンジーといわれる巻きスカートにサンダル。これが一般的なスタイルという事も初めて知った。




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2日目
時差はないが、完全に寝不足の中、シャワーを浴びてホテルを出る。冷房がかなり効いていた。


バスに乗り込み揺られ揺られ6時間、
ネピドーに到着。


途中、休憩で、パーキングにはいったのだが、そのパーキングに50チャット(5円)の飴が大量に売られていたので購入。冷房で少し喉がやられていた。


ホテルもとても広く、綺麗だったのだが、どこに行っても、ホテルの空調は適温が難しい。


昼にホテルに到着し、昼ごはん。
取り分けて食べるタイプで、ミャンマーの料理だったが、とても美味しかった。


ご飯を食べてすぐに、予防接種拡大センターへ。


ネピドーという街は最近首都とされたらしいが、僕らが想像する首都とはまだ少し違い、道は広く、住んでいる人も公務員の人だけで、ヤンゴンよりは、まだ田舎に見えたが、土地の値段も毎日上がる程の急成長の街だそうだ。


予防接種拡大センターでは、様々な医学的な見地からのワクチンについてを学び、実際に、ワクチンを見せていただいた。
「あぁ、こうやってちゃんと形になっているんだな、という事に感動も覚えた


僕も2曲ほど歌い、最後にはみんなで、踊りを披露してくれ、一緒に踊った。


本当にみんな温かくて、優しく微笑みかけてくれるのが、とても印象的だった。


その後には、パコダと言われるミャンマーの寺院へ。
国も違えば文化も違う。裸足でしかお寺に入れないし、男性しか入れない場所もある。


そこから見えた夕焼けは言葉に表すのが難しいぐらい美しかった。

その後、このネピドーで一番大きなショッピングセンターへ。


まだ、観光客もそんなに沢山いないのか、ジロジロと見られる感覚を覚えた。特に嫌な気持ちにはならなかったけど、そんなに珍しいのかな、と思った。


ホテルでの飲み物を買い、一度ホテルに戻り、もう一度、ショッピングセンター内にあるヌードル屋さんに行ったのだか、そのお店に虫が多かった。僕は日本で調理されたものは、殆んどを食する事が出来るのだが、このお店の虫の量は半端なかった。


30秒に一度は虫がポトリとテーブルに落ちて来る。
ヌードルに入ってしまえば、、
と考えると猫舌の僕も数分で食べ切る事が出来た。

ちなみに味はとてもあっさりしていて美味しかった。


ホテルに戻る帰り道、またジロジロと見られ、中には笑っている人もいる。どうしてだろうとみんなの目線を確認してみると、どうやら、同行しているカメラマンのズボンの形がとても珍しく面白いようだ。日本では普通に流行っているサルエル風のパンツ。


僕が彼のズボンを広げて見せると、若者達はみんな爆笑していた。これもまた文化の違い。現地の巻きスカートとそんなに変わらないように見えるが彼らからしたら「なんだよ、スカート。ダブダブだぜ!」といった感じなんだろうな。と思いながら明日に備えた。




3日目


バスに乗ってさらに北上を目指す。ミャンマーの高速道路をひたすら走る。


高速道路といっても、人もバイクも自転車もたまに、通り過ぎる。
ウトウトしながら、揺られていると、よく運転手さんの短めのクラクションで、目が覚める。


ミャンマーの運転手さんは、バイクも含め、よく短めのクラクションを鳴らす。
「自分がここにいるから、気を付けてね」といった、正しい警告音の使い方で、大きな車だから、クラクションが大きいという、感じではない。


周りを見渡せば緑しかない広大な自然の中の一本道、「こんな所で急に降ろされたらどうやって戻るんだろう」と考えていたとき、車が「ガタガタ」と大きな音をたてながら大きく揺れた。

パンクだ。


今回の旅はこの大型バスでどんな道も走っている。下がアスファルトじゃない凸凹の道もまるでジャングルの奥地に入り込むような1本道も。

「パンクしないほうが不思議だな」と思っていたが現実に。

しかしそこからが凄い。運転手が見事な手際でスペアタイヤに約15分ほどで履き替えた。


ガソリンスタンドで働いていた経験がある僕は、ボルトを閉める順番もしっかり見ていたが、対角線上の順番で、教科書通りの安全な作業という事も驚いた。


しかし、チョーさんの気遣いで、バス自体をこの日で変更する事に。
パンクした場所から車で10分ほどのサービスエリアまでは、ユニセフの車の荷台に男性陣は乗り込み移動。日本では考えられないが忘れられない時間になった。


サービスエリアで、昼食をとり、新しいバスが来るまでの時間、売店のおばさんに話しかけ、椅子を出してくれたので座り込み、色々と片言の英語で話していると、

「ミュージシャンなら一曲歌ってよ」と。
「だけど、ギターがバスの中にあって今出せないんだ」と言うと、
「ここから5分の家にギターがあるから持ってくるわよ」と。
5分後、幼い子供二人と、近所の方々が集まってきてくれて、演奏会が始まる。


ミャンマーの人達は本当に優しく、いい笑顔で、その場の雰囲気が出来上がる。
沖縄に行ったときに感じた人間らしさ、絆、繋がり、のような感覚を、強く強く感じた。


ピックをプレゼントし、そこから街の保健所に移動。

現地の人が音楽と踊りで出迎えてくれた。


この旅で初めて実際にワクチンが投与される現場に立ち会う。


保健所といっても、小さな一部屋の建物の前に野外に椅子が並べられており、そこに子供を抱いたお母さんが列を並べて座って待っていた。

細川さんの「あなたも歌ってみたら?」の一言で歌う事を決め、お母さん達が待っている間に、通訳を通して「人」を歌った。


みんな笑顔で優しく聞いてくれ、僕がここに来ている趣旨もしっかりとわかってくれているみたいで、大きな拍手までいただいた。

子供達はみんなまだ1歳にもなっていない子供達だったから不思議そうに歌を聞いていた。


予防接種を終え、またもや車を走らせ、次は病院へ。
この辺りの医療がどのようなものかを知る為に。

僕はミュージシャンなので、ここでは医療に関することを個人的な見解から書く事は避けるけど、ミャンマーの田舎の病院は、やはりまだまだ色んなものが揃っていないのかな、という感覚だった。
ベットは50台あると言われているが、大きな一部屋に50個のベッドがずらっと並べられている、そんな感じだった。


ちなみに、救急車というものはほとんどなく、救急で輸送が必要な場合は、村の誰かが必ず助け合って病院まで運ぶそうだ。

日本からツアーに参加した消防士の方が、その村に唯一ある救急車の中を見て、「これは人をただ運ぶ手段にしかならない。だけど日本の救急車をそのまま持ってきてもこの辺りの道の状況じゃ、まともに走る事さえ難しいだろう」と少し悲しげな顔をして話していた。


病院の視察を終え、またもや車を走らせポッパ山、中腹にあるホテルへ。


追記 

田舎のほうに足を伸ばすと、僕が想像していたものと近い部分も   沢山あった。アスファルトがまだ整備されていない中、車やバイクが走り、砂ぼこりが凄いなと、言う事や、地域や季節によっては綺麗な水の確保が難しいということなど。
しかし、それでもミャンマーの人達の笑顔や優しさ、気遣い、恥ずかしがりやな人格は変わらない。そこに、とても考えさせられるものがあった。
しかし、夕食に日本から持ち込んだ、すき焼き味のふりかけをミャンマーの先生方に食して頂いたが、反応はいまいちだった。おいしいのになー。

     
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4日目


ポッパ山中腹からの眺めは素晴らしかった。タウン・カラッという石峰はとても幻想的だった。


麓までバスで移動し、保健所を見学した後、今回僕が歌う時間を正式にとって頂いた学校まで移動する。


この学校までの移動が凄かった。
バス一台というより、車一台通るのが精一杯の道をひたすら奥へ奥へと進む。


途中、牛車と何度もすれ違ったのだが、それさえ一苦労のそんな道を奥へ奥へと進む。


こんな奥地に学校があるのかと、子供達はいるのか、と思っていたが学校に着くと、大勢の子供達が待ってくれていて、小さなステージで僕らに、お遊戯を披露してくれた。


かたことのビルマ語と通訳さんにお願いもして「人」を歌った。そして、新しい曲に収録をしたいと考えていたメロディーも一緒に歌ってもらった。


この時間は本当にここでは書ききれないほど素敵な時間だった。
純粋な真っ直ぐな真っ直ぐな瞳、一生懸命に歌ってくれる姿。子供達は本当に本当に真っ直ぐだった。

そのあと日本からのお土産にと色々持ってきていたものを子供達に見せる。


先ずは「折り紙」どんなものにミャンマーの子供達が興味があるか全くわからず、折り紙を出してみたら、子供達は「それ、知ってるよ」って笑。


それならと、トランプを使って簡単な手品を。おそらく成功したのだが、これも受けはいまいち。笑


じゃあサッカーボールを、と取り出したが、このあたりでそろそろ出発の時間が。


これは僕の下調べがあまり出来ておらず失敗に終わったが、帰ろうとしたとき、みんなで歌うときに配ったミャンマー語で書いた「人」の歌詞カードに「サインをしてほしい」と、沢山の子供達に囲まれた。


ミャンマーに来てサインをする事になるとは思わなかったが、全員にちゃんとサインをし、学校を離れた。バスに乗り込み手を振る子供達の顔を見て、

「この子達も生まれたばかりの頃日本からの支援でしっかりと予防接種を受けていたんだな」と思うとなんだかとても嬉しい気持ちになった。


バスに揺られバガンへ入り昼食を食べる。


バガンの遺跡は本当に幻想的だった。広大な平原に点在する、バガンは、どう説明していいのかわからない。とにかく凄かった。あるアーナンダ寺院に入り、ミャンマーならではの面白いエピソードも教えてもらった。


4つある仏像のうち二つは地震で燃えてしまい、2つだけが残っていて、その二つだけが、離れて見上げると笑っていて、近寄るとその笑顔が消えるという今の技術では難しく、昔の人が考えた設計をしているという事や、その寺院の真ん中には神様の足跡がしっかりと形になって残してあるという事。


なおかつ少し前にとあるおばあちゃんが、何千年も前から書かれていた寺院内の壁画を全て白く塗りつぶした事。

なかなかロック名エピソードがそこには沢山あった。


夕食を食べホテルへ。


追記 ミャンマーという国と人を強烈に感じた一日だった。子供達の歌声は僕の心に深く残ったし、生きている間に見たかったものの一つの遺跡も見る事が出来た。
しかし、途中で立ち寄った街は、やはり凄く砂埃がたち、マスクをしないと少し息がしにくい感覚だった。道が整備される前に、すでに沢山の車やバイクが入り込んでいるし、乾燥地帯ということもあって砂もサラサラだからだと感じた。



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5日目


ミャンマーに来て初めて朝食を取る。驚いたのが、その朝食で出た、パンがとても甘くて
美味しかったこと。食パンのような形をしているのだが、程よく甘く。美味しかった。

バスに揺られ、とある保健所にまた視察に。


子供達が沢山いて、両脇に花道を作ってくれ、手を合わせ僕らを歓迎してくれた。


保健所に誰がどのようにいるかなど、誰も知らないので、その姿を見た瞬間、
「ギターをホテルに置かず持ってきていればよかったな」と思ったが、仕方が無い。


しっかりと予防接種が行われている事をこの目で見ようと、その様子を見ていた。


すると現地の人が「ミュージシャンなんだよね?」と声をかけてきてくれ、
「はいどうぞ!」
とその村にあるギターを僕に渡してくれた。


弦も錆びていたし、チューニングもぐちゃぐちゃだったけど、ここまで来て歌わない理由はないと、チューニングを済ませ
予防接種をしている青空の下で一曲歌った。


すると、子供達がまだ、列を作ったまま僕らが戻ってくるのを待っていると聞き、
血が騒ぐ。長く長く作られた両側の花道の中心ぐらいまで歩き大きな声で

「こっちにおいで!」と叫びジャエチャーをすると、沢山の子供達が僕を囲むように走ってきた。


昨日は「人」をミャンマー語で(ルゥー)歌ってもらった。


今日の子供達には日本語で「hito」と歌って欲しくて必死に伝えた。


「Hito hito hito」これを何度か練習して、一緒に歌った。みんなと手拍子もした。


あまり時間がなく、完璧とはいえなかったけど、最高の歌声が聴けた。
バスを見送る子供達が「hito hito hito」と

何度も歌ってくれた時、こんな感動があるのかと、目頭が熱くなった。


昼食をとり、僕が今回、歌以外で訪れたかった場所、日本人兵慰霊碑。
ミャンマーと日本は、映画「ビルマの竪琴」の題材になり知られているように、深い歴史がある。


イギリス植民地であったミャンマーを解放さえるため、アジアの代表として戦った日本軍。


その慰霊碑の前には、当時日本人兵でミャンマーのお坊さんに助けられ生き延びた人が感謝の意味も込め寄付で建てたお寺もあった。


遥か遠い国の、奥地の一角にその慰霊碑はしっかりとあった。
様々な歴史があり、悲しい出来事を乗り越え、今の僕らはいるんだなと改めて平和である幸せを感じながら手を合わせた。


ここでお亡くなりになられた一人一人に家族があり、大切な人がいた。それを思うと胸が詰まった。



ふいに細川さんが「ねえ皆さん、お歌でも歌いましょうか」とおっしゃった。
僕ら日本人は集まり、「ふるさと」を歌った。


兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき ふるさと
如何にいます 父母 つつが無しや友垣 雨に風につけても 思い出ずる ふるさと


忘れちゃいけない、悲しみがあるんだと思った。
繰り返してはいけない事があるんだと思った。


ホテルに荷物を取りに行き空港へバガンからヤンゴンへ飛行機で戻る。
ヤンゴンに着き、この旅最後の夕食を。
ホテルに戻る。


と、ここで旅は終わるのだが、実は僕には果たさないといけない約束が一つあった。


それは、初日の夜ヤンゴンでギターを弾いていた青年。
実はその青年に初日早々声をかけ、一緒に1時間ほど歌ったのだ。ミャンマーで有名な曲を歌ってもらったり、自分の曲を歌ったり、その少年が知っている日本の曲を歌ってもらったり。


実はそのミャンマーでも有名な日本の曲がこの旅でとても助けられ、街の人に話しかけるとき「この曲知ってる?」と聞くと「もちろん!」ってなる。そこから話しが弾んだのだ。


その少年に26日に夜にはここに戻ってくるからもう一度一緒に歌おう!と約束していたのだ。時間は23時ごろだったので、青年はもう寝ていたが、下にいた友人が起こしてきてくれ数曲一緒に歌った。

青年の友達も僕も一緒に歌った。青年が「君の歌を歌ってよ」というので、何にしようか考えていると、
「この前歌ってくれた曲だよ。」と。

色んな事があったせいか何を歌ったかあまり覚えてなくて思い出そうとしていると、
「hito hito hito」
と青年から。


「人」を一緒に歌った。


「明日の出発があるから、もう行かなきゃ、」と座り込んでいた場所から立ち上がった時の青年の悲しげで寂しげな表情が今でも頭にこびり付いている。


「必ずまた会おう!」と連絡先を書いてもらい、手紙を出す事を約束し手を振った。


また忘れられない時間となった。



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6日目
ホテルを出てヤンゴン空港へ。


この旅で本当に色んな事を感じた。


客観的に僕らが暮らしている日本という国も少し見えた気もしたし、歌、音楽の本性も見えた気がする。


忘れられないのは、ミャンマーの人々のあの恥ずかしがりながら笑う、微笑み。


人に対する思いやりなど、何処か僕ら日本人と近い気がした。

経済的に発展し失われてしまったものが何なのかを理解できた気もした。


僕が昔からなんとなく疑問を抱いていた事の答え合わせも少し出来た気もした。


帰国したその日に、これを全て書き上げたのは、この思いを忘れたくないからでもある。


それでも羽田に着いた瞬間、肩の力が抜けたのかホッとしたし、ミャンマーでの旅が夢であったかのように深い眠りに就いていた。

改めて、この旅に関わってくれた皆さん、そして、ここまで読んでくれた皆さんにも感謝します。


あっ 明日ラジオの収録の準備をしなくちゃな。


真戸原 直人


追記 

一気に読みたい人もいるかなと、写真つきでアップしてみまし    た。ミャンマー、少し遠い記憶になっているけど、いい旅でした。


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