新聞によるとエクアドルは小中学校の教員不足を解消するため、国立教育大学を2025年までに6箇所設置するらしい。大学の教師にはスペインの教育学の博士、スペインに在住で教員資格のあるエクアドル国民を迎える。さすがにエクアドル、アメリカ合衆国や、イギリスからはぜったいに講師はよばないだろう。
エクアドルといえばアサンジやスノーデンの亡命をうけいれたとして最近ニュースでも聞く国名だが、いまそれ以外でもボリビアとならんで注目されている国だ。
それはボリビアとエクアドルの先住民がそれぞれに国の新憲法に、スマク・カウサイーーケチュア語で「地域文化に根ざして、みんなで充実した生活をおくること」を目標として盛り込んだことによる。
いまのわれわれの経済成長信仰による、極端な利己主義や、ひとの不幸の上に成り立つ豊かさや地球の天然資源の私有化は一部の人間以外のほとんどの人間を不幸にするだけではなく、地球環境の持続という意味でも限界に来ている。セルジュ・ラトゥーシュは、「脱成長」の立場から、老師の言葉を引用している。
「豊かな人とは、足るを知る人のことである」
つまり幸福は消費によっては得られないと知るべきなのだ。
エクアドルやボリビアの先住民から発せられる言葉,ブエン・ヴィヴィールやコンヴィヴィールは自然と調和して良く生きること、みんなで一緒に楽しく生きることを示してる。西欧人が新大陸を発見したとき、自分たちより文明として劣る先住民がなぜ、かくも幸福なのかと驚き、嫉妬さえしたといわれている。であるなら、西欧人はその時、かれらに見習えば良かったのだ。ところがしたことといえば、収奪と殺戮だ。
この西欧人(アメリカを含む)の論理は500年たってもいまだに続いている。そして新自由主義によってさらにそれは加速され、より非人間的な方法で収奪と殺戮は行われている。
ところがその「欧米」は、いま地域的ものではなくなり、ひとつの概念、つまり日本もその意味で「欧米」なのだ。それに積極的に加担してしまっている。
さて、ラトゥーシュのいうような経済成長なき社会発展がはたして可能なのか、しかしそれなしでは、地球はどのみちそう長くは持たないのではないだろうか。
ところで、ディーノ・ブッツァーティの「クマ王国の物語」(福音館文庫)について少しだけ。
遠い昔、厳しい冬の寒さと飢えに耐えられなくなったクマたちは残忍な大公が君臨するシチリアを征服した。13年間のうちに、そのクマたちは都会の豊かで便利な暮らしのなかですっかり堕落し、賭け事や乱痴気騒ぎに明け暮れる。
クマ王国の王はそんなとき、側近に裏切られ、命を落とす。死に際に王はクマたちに約束してくれという。
この都を立ち去るのだ。
ここでは、手に入ったのは富だけで、心の平安は見つからなかった。その滑稽な衣服を脱ぎなさい。黄金は捨ててしまうのだ。
大砲だの銃だの、そのほか人間からおそわったおぞましいものは、みんな投げ捨てなさい。
以前のお前たちに、もどることだ。ひゅうひゅうと風の吹き通うところで、なんとわたしらはしあわせに
暮らしていたではないか。
クマのように森の奥に引き返すことはわれわれにできないけど、でも時間的にはどうだろう。わたしについて言えば昭和40年代なら全然オーケー。たぶんちっとも不便と思わないな(言い切れないけど)。
ディーノ・ブッツァーティの本は最近岩波文庫で2冊出版されました。代表作の「タタール人の砂漠」と短編集「七人の使者、神を見た犬」。
イタリア文学がすきな人もそうでない人も是非。