入江悠監督最新作。

 

母親から虐待され、12歳から売春を強要されてきた杏。覚せい剤常習者でもあった彼女はひとりの刑事と出会い、自助グループに誘われ自立への道を歩み始める。しかし、さらなる困難が待ち受けていて……。

 

コロナ禍に実際にあったという事件を基に、搾取され尽くしたひとりの女性が生きる希望を次々に絶たれていく展開。正直言って観ているだけでかなり過酷で消耗する映画だった。

 

杏を演じる河合優実は魂の籠った熱演で素晴らしい。シャブ中で生きる希望も何もない状態から、光を見出しては奪われそれでもなお希望を持ち続けていた若い女性をこれ以上ない密度で演じていた。

 

脇を固める役者も達者。クセが強い掲示を演じた佐藤二郎、本作の中で唯一といってもいい「常識的な」場所から杏に関わる記者を演じた稲垣吾郎、そして、自分の娘を「ママ」と呼びとんでもない思考回路で娘を加害・支配する母親役に河井青葉。特に河井青葉は相当に消耗したのではないだろうか。

 

コロナ禍で起きたこと、あの時の空気感をかなりのリアリティを含んだまま再現していたし、重苦しい中にもふと力が抜けるような瞬間も散りばめられていて、よくできた作品だとは思う。搾取しつくされ、学ぶ機会も奪われた弱き者にようやく救いの手が伸びたのに、それが色々な行き違いから断ち切られるという無念さは十分表現されていたし、いま現在もこのように必死で手を伸ばしている人々がいるのだろうという切実さもあった。杏を救えなかった社会や自分たちに怒り、杏を救ってあげたいと強く願っているのも伝わってくる。

 

だけどなあ……こういうの、どうなんだろうなあ。『月』『市子』といった作品の系譜になるのだろうとは思うのだが、なんだろうなあ。こういう実際の悲惨な事件を基にした映画を散々観てきて最近感じてしまうのは、「救ってあげたかったのなら、救ってあげればいいのに」だったりする。自分でもとてもナイーブな感覚だとはわかっている。でも、悲惨で可哀そうで涙を流して自分たちのことを顧みて反省して、でも次の日には既にちょっと忘れちゃってということを繰り返すのが正解なんだろうか?「こうすれば救えたかもしれない」ということを提示してもいいのではないのか?映画の中でくらい、彼女を救ってあげてもいいのではないのか?どうしてもそう感じてしまった。

 

正直に言うと、終盤のシーンに強い違和感を覚えたのだ。まずは、「僕があれをしなければ」と後悔する稲垣吾郎に。杏の居場所を奪ってしまったことが悲劇への直接的な引き金だったのは確かだろうし、彼の立場ならば後悔するのは仕方がないとは思うものの、わざわざセリフにする必要あった?なんで?彼の吐露は「正論をふりかざすことが必ずしも最善ではない」とも受け取られかねないものであり、それは杏ではない他の被害者たちの苦しみを相対的に低く見ていると解釈される危険性がある。本作での稲垣吾郎の行動は、『ミッシング』で描かれたメディアの暴力とは全く違う性質のものであり、杏の居場所を奪った根本は稲垣吾郎の行動ではないはずなのに。

 

ただ、これだけならばちょっと引っかかっただけで終わったのかもしれない。しかし、その後に続く佐藤二郎のモノローグで完全に気持ちが冷めてしまった。何を悔しがっているのか?誰に向かって言っているのか?誰を責めているのか?佐藤二郎はただ苦しそうに押し黙るだけではいけなかったのか?今でも疑問だ。あのシーン、なんなの?

 

また、最後の最後で杏から希望を奪うあの展開についても、うーん。誰からも守られない存在から、守ってもらう存在へ。そして、今度は誰かを守る存在へとなったときに本当の意味での人生の希望を見出すというロジックは確かに説得力があるが、やっぱりちょっと強引じゃない?いくら介護の仕事をしていたとはいえ、あの状況でああすることはちょっと難易度が高いと思うし、警察に連絡できなかったのはともかく、管理人さんには相談するんじゃないのかなあ(その後、別件で「管理人さんに言うから」って言ってたし)。

 

上記3点への強い違和感は、終盤だけが妙に説明的で作為的に感じられたからというのが大きい。そこまで意図的・作為的にまとめるのならば、杏を救ってやってもよかったのに!とつい思ってしまったのだ。杏に希望を与えるために事実ではない要素を追加することができるなら、杏を救うために事実ではない展開を用意してあげてほしかった。これは完全に私の個人的な好みでしかないけれど、どうしてもそう感じずにはいられなかった。私は本作があまり好きではないです。