『ファーザー』のフロリアン・ゼレールが作劇・監督した作品。

 

離婚して若い妻と幼い息子と暮らしている弁護士のピーターは、ある日訪ねてきた前妻に「ニコラスが学校に行っていない」と

打ち明けられる。前妻との子・ニコラスはひどくふさぎ込んでいる様子。ニコラスにピーターと暮らしたいと懇願され、ピーター一家はニコラスを受け入れることにするが……。

 

『ファーザー』ほど技巧的ではないものの、かなり心理的ストレスの大きい作品だった。心を閉ざしてしまった思春期の子どもに対してどう向き合うかというストーリーであり、親とは?子とは?という大きいテーマを投げかけている。

 

ピーターは、精一杯ニコラスに寄り添おうと努力しているように見える。キャリア上の大きな転換期も迎えており、家庭内の問題とキャリアの構築との両方に全力で向かっていこうとしているように見える。ピーターは悪い人ではないし、ニコラスのことも愛しているのがわかる。でも……でも。自分もひとりの親として、どこか居心地の悪さを感じるのはなぜだろう?その違和感は、徐々に徐々に大きくなっていく。

 

 

<以下ネタバレあり>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニコラスは扱いにくい子だ。最終的に、急性うつ病という診断が下ることでひとつの「答え」は出るのだが、楽しそうなときもあれば突然ふさぎ込むこともあり、なによりも平気な顔をして嘘をつく。ピーターではなくても、ニコラスのような子どもにどう対処すればいいのか悩んでしまうだろう。

 

しかし、終盤のあるシーンでピーターが自分の思いを一気にまくしたてたとき、親が持つ子に対する責任の大きさに眩暈がした。一人の個人として、不幸な結婚から逃げ出し、愛する人と新しい家庭を持って何がいけないんだ?という言葉は、ニコラスにとってあまりにも残酷だ。だって、そのすべてにニコラスは何の責任もないのだから。そして、その言葉を聞いた瞬間に、必死で伸ばしていた自分の手を振りほどかれたも同然だから。

 

ピーターの言葉は真理だ。親子であろうとも、別の人間。子どもはそのことを成長とともに学んでいく。小さいころは万能に見えていた両親が、本当は欠点も弱さもあるただの人間だと大人になってからわかるというのは誰しもが経験することだろう。親は「子どもは自分とは違う人間だ」ということを肝に銘じながら子育てをする必要があるが、子ども自身がその認識を得るまでは徹底的に気持ちに寄り添ってやらなければいけないのだと私は思う。海の中でニコラスが一人で泳ぐ自信を得るまでピーターがその手を離さなかったように、ニコラスが父親から手を離せると信じられるまでピーターはニコラスを突き放すべきではなかったのだ。ヒュー・ジャックマンのあの独白シーンは、私の目にはひどく醜悪でひどく残酷に映った。

 

それは、自分もこういうことを言ってしまう可能性が十分にあるとわかるから。子どもの幼い屁理屈に向き合っているとき、子どもが嘘をついたとき、子どもがまったく親の指示に聞く耳を持たなかったとき、親の忍耐は繰り返し繰り返し試される。子どもさえいなければ自由なのにと思うことだって何度もある。しかし、子どもを持っている以上、親である以上は、子どもの方から自然と親の手を放すまで決してその責任を放棄してはいけないのだ。

 

途中から想像できる最悪の結末に向かわないでと強く願いながら、やはりそうなってしまう展開に絶望し、その後にやってくるさらなる辛いシーンに胸が抉られる。3人の大人の視点を通してストーリーは描かれ、観るものは彼らの苦悩や葛藤を理解できる。そして、「彼らは十分に頑張っている」とも思う。しかし、大人に対して子どもは無力なのだ。両者は決して対等にはならない。絶対に。「ここまでやればOK」なんていう基準はどこにもない。重要なのはその子の手を決して離さないことなのだろう。