2019年に橋爪功主演で日本でも上演された舞台『Le Pere 父』の戯曲家自身の手による映画化。アンソニー・ホプキンスがアカデミー主演淡陽賞を受賞したことでも話題になった。

 

81歳のアンソニーの元に娘のアンがやってくる。アンソニーが勝手に介護士をクビにしたからだ。アンはアンソニーに、恋人とパリで暮らすことにしたと告げる。ある日、アンソニーが台所で食事の準備をしていると、リビングに見知らぬ男がいた。男はアンの夫でポールといい、すでに結婚して10年になると言う……。

 

同じ人物がまったく違うことを言ったり、同じ名前なのにまったく違う顔をした人が現れたり、さっきまでいたはずの人がいなくなったり……アンソニーの周りでは不可解なことばかりが起こる。これはミステリーなのか?……いや、違う。これは認知症の老人の目に映る世界を描いた作品なのだ。

 

突然目の前の見知らぬ人が、「あなたの娘です」と言ってきたらどうだろうか?さっき聞いたはずのことを本人の口から全否定されたら?本当のことがわからなくなり、ついには自分が誰なのかもわからなくなる。これまで介護の側から描かれることが多かった認知症を、本人の側から描いた画期的な作品だと思う。実に見事な構成で、こんな戯曲を書けること自体が信じられない。

 

物語はロンドンのフラットを中心に描かれるのだが、台所と隣のリビング、そこから伸びた廊下の先にあるアンソニーの部屋、その途中にあるアンの部屋、というように配置が良くわかるようになっている。また、壁にかけてる絵画などの調度品もわかりやすく強調されているので、アンソニーが感じる「ちょっとした違和感」を観客もすぐに感じることができる。舞台だからこその構造的な仕掛けを上手いこと映像表現に落とし込み、さらに窓の外の風景も小出しにすることでより多くの意味を含ませる見事な演出。天才か?天才なのか?天才なんだな!!フロリアン・ゼレール、恐ろしい子……!

 

もちろん、介護する側の苦しみだって描かれる。「時計を盗まれた」と言い張り、ときに自分を傷つける言葉を吐く父親。そして、父親の介護にうんざりし始めている恋人。目の前で妹のことを愛おしそうに話す父親……アンは嘆き、泣き、怒り、静かに耐え、父親の機嫌が良いとホッとして微笑む。オリヴィア・コールマンの繊細な演技が娘が抱える複雑な感情を見事に表現していた。

 

本作はアンソニーの視点で語られるので、実際はなにが事実なのかを簡単に掴むのは難しい。しかし、アンの服装などで時系列の整理を促したり、同じセリフを違う人物に言わせることで現実と妄想との差を際立たせるなど、最終的には事実をすっきりと理解できる作りになっている。非常に周到に作られていて、完璧に終わる物語。そして、観る者の世界の見え方を変えてくれる作品。作劇として完璧だ。観終わった後は打ちのめされた気がした。橋爪功版もすさまじい評判だったが、是が非でも観に行けば良かったー!!!再演して!

 

なお、アンソニー・ホプキンスの演技がこの上なく素晴らしかったことは言うまでもないだろう。とにかく観て!!それしか言えない。傑作。