観てきましたー。ロンドンで観たときと、映画版を観たときの感想はそれぞれ下記。

 

 

 

私が観た回のキャストはこちら↓

エヴァン・ハンセン 吉沢 亮
ハイディ・ハンセン 安蘭けい
ゾーイ・マーフィー 木下晴香
コナー・マーフィー 廣瀬友祐
ジャレッド 上口耕平
アラナ 宮澤佐江
シンシア・マーフィー 瀬奈じゅん
ラリー・マーフィー 新納慎也

 

息子が観たいというので、急遽チケットを買い足して駆けつけましたよ有明。というわけで、まずは吉沢亮のエヴァンとご対面した。

 

『ディア・エヴァン・ハンセン』は小さな?嘘があれよあれよという間に大事になっていって、そうこうするうちに皆の身勝手な部分なんかも見えてきて……というストーリーなので、ハッキリいって観ていて気持ちが良い作品ではない。むしろ、ずっと居心地が悪いし、モヤモヤする。でも、孤独を知る人や失敗を経験した人にとっては、「どんなに失敗をしても、どんなことがあっても、生きていっていいんだよ」というメッセージをくれる作品であり、私はその人間くさい感じが好き。

 

さて、吉沢亮。とことん訓練したであろうミュージカル歌唱で、割と太めの声質。小さく歌うシーンでは少しピッチが不安定になりがちなものの、張り上げる個所になればなるほど良さが出てくる。かなり強めに心を閉じているタイプのエヴァン像は独特の排他性を放っていて、鋭くも脆い精神性を繊細かつ緻密に演じていた。「嘘」による変化と、その根底にある恐怖と渇望をありありと感じさせる演技は見事。特に終盤のマーフィー家での告白のシーンは素晴らしかった。

 

演出は、広い空間になったためだろうが、ロンドンで観たものとは全く違っていた。基本的には巨大な窓のセットが盆と一緒に回るスタイルなのだが、転換要員が必要なこともありアンサンブルが登場。彼らは子どもたちの影として登場人物の傍らに存在している。私が観た回では、メインキャストと完全に体型が同じ影がペアリングされていたのでかなり効果的だったが、毎回そういうわけではないらしい。

 

SNSの映像や文字が映写されていくのは日本版も踏襲……ではあるのだが、なぜか英語の文字が多かったのは不思議だった。パット見て読めた方がいいんじゃないかと思うが、なんで英語をチョイスしたんだろう?

 

Wキャストの他パターンも観る予定なので、そちらを観てから総括の感想は書きたい。まず片方だけを観た時点では、上口ジャレッドと安蘭ハイディは完璧。廣瀬コナーはちょっと怖すぎて、木下ゾーイはちょっと良い子過ぎるという印象を受けた。マーフィー家の人間たちが、それぞれ理想と現実のギャップに苦しんでいて、都合が悪いことから目を反らしてきた(それによって機能不全家族になっていたが、皮肉なことにコナーの死によって家族として表面上まとまった)という要素が割と薄めな気がしたのだが(シンシアはそういう感じがしたんだけど、ゾーイとラリーの善人感が強すぎるというか)、キャストの芝居の問題なのか、作品としての全体的な解釈の問題なのかはこの回だけを観ただけではわからないかな。次に観るのが楽しみだ。

 

 

 

ヘンリック・イプセンの近代演劇の金字塔『人形の家』を、ロシア出身の演出家ティモフェイ・クリャービンが大胆に現代化。

 

主人公ノラは、誰もが羨むような生活を送る一方で、夫ヘルメルからは「理想の妻」として扱われ、自身の意思よりも夫の期待に応える存在として生きている。かつて夫の命を救うために秘密裏に借金をし、その際に不正な手段を用いた過去を抱えるノラは、その秘密を知る人物から脅迫を受ける。秘密が明るみに出る危機に直面したノラは、夫が自分を理解し守ってくれることを期待するが……。

 

これは斬新!かなり思い切った演出でビックリした。

 

舞台を現代社会へ移し替え、スマートフォンやメッセージアプリ、ビデオ通話を物語の中心的な表現手段として取り入れている。舞台の前面には基本的にずっと幕があり、上部にスマートフォンのLINE画面が映し出されていく。登場人物たちの会話はLINEを通じてなされ、地のセリフはほとんどない。打ち間違えて消したりといったリアルな画面上の挙動も丸見えの状態となっていて、非常に目は疲れるものの、LINEでやりとりをするときの微妙なニュアンスや心理が手に取るようにわかるから凄い。

 

最初はほぼ「LINEの画面と背景の人間たち」といった構成だったものが、ノラが抱える秘密と焦りが明るみになるに連れて、徐々に人物たちの言動もクローズアップされていく。ダンスレッスンでノラが夫に対して、ある目的のためにLINEのやりとりをする場面なんかはかなり笑えたし、文字だけで綴ることで単調になりそうなところを、巧みな緩急で飽きさせないのが素晴らしい。

 

中盤までは離れたところに存在していた人物たちが(だからLINEでやりとりしているわけで)、対峙するシーンでは当然肉声でのやりとりが始まる。LINEではいつも楽しく盛り上がっているけれど、いざ久しぶりに対面すると照れくさいといった経験は誰しもあるものだと思うが、本作でもそのギャップが表現されている。ただし、照れくさいではなく「対峙すると緊張感が増す」という意味でだが。

 

スマホの画面を通してキャラクターの声を聴いているうちに、なんとなく彼らと自分が同化していくような不思議な感覚に陥っていたので、それぞれの人物が誰かに対峙して肉声を発したときに何ともいえない不安に駆られ、何が起こるかわからず緊張してしまうといえばいいだろうか。自分だったものが、急に他人になる……みたいな。自分の内部から出ていたかのように錯覚していた声が、急に自分から離れてしまったような。少なくとも私にとって「スマホに文字を打つ」という行為は、声を出すよりも内から発っせられている感じがするのだと思う。ストーリー上も人物が対峙するときは緊張感を伴っているシーンなわけだが、それに加えて画面の文字→声による発話になったインパクトが緊張感をより高めていた気がした。

 

2幕では「近くにいるのにLINEで会話する」という特殊な状況が描かれ、段々とふたりの距離が近づいていく。近くにいるのにLINEで会話というのは恋愛のはじまりの時期に行われるような行動なわけだが、本作ではそれがもっと不安と恐怖に支配されたテイストになっている。恋愛の絶頂を思い起こさせる構造なのに、実際はハラハラした不穏なやりとりがなされているというギャップに痺れた。そしてついにふたりが対峙したとき、圧倒的な絶望が舞台上を支配するのだ。鮮やかにひとりの人間の表と本性を表現した勝地涼に拍手。それまでノラが必死で文字を打っていたのを一緒に体感してきた観客は、ノラが感じたショックを等しく感じ、ノラの選択を全面的に肯定する立場に誘われる。

 

セリフを覚えて発するということに加えて、スマホの画面を打つ芝居を求められた役者たちの苦労はかなりのものだったと思われるが、黒木華をはじめとして全員が完璧にやってのけていた。「女性は妻であり母である前に人間である」ことを高らかに宣言した傑作戯曲を、これ以上ないほど現代的に描き切った本公演に心からの賛辞を!

 

てん

ディズニー&ピクサーの人気作品「トイ・ストーリー」シリーズの第5作。

 

ボニーのもとで暮らすバズやジェシー、フォーキーたちは、これまでと変わらぬ日常を送っていた。しかし、最新型の電子タブレット「リリーパッド」がやってきたことで状況は一変。多機能なデバイスに夢中になるボニーの姿を前に、おもちゃたちは自分たちの存在意義に疑問を抱き始める。「おもちゃはもう必要とされていないのか」という不安が広がる中、仲間からのSOSを受けたウッディが再びボニーのもとへ戻り、バズと再会する。かつての名コンビは、おもちゃの居場所を守るため、新たな脅威に立ち向かう……。

 

前作の感想はこちら。

 

 

「子どもの所有物としてのオモチャ」から脱却した前作の路線を踏襲するのかと思いきや、5では元々の定義の方にグッと戻してきた。ボニーの所有物となったジェシーを中心に、子ども用タブレット端末登場の脅威を描くというストーリーになっている。

 

とはいえ、タブレット端末のリリーパッドはこれまでのトイ・ストーリーシリーズの悪役のようなヤバさはない。今まではどの悪役も基本的にとても性格が悪かったり残酷だったりしたが、リリーパッドは「電子機器である」ということを除けばジェシーたちとマインドは同じであり、「敵」とはいいきれない。なので、良くいえば4までよりも穏やかな物語だし、悪くいえば今までと比べるとハラハラが足りない。めっちゃ平和。

 

暗い部屋でボーっとデバイスを眺める人間たちの描写は不気味だが、「デバイスはダメ」と言い切る形の物語には当然なっていない。蓋を開けると判明するのは、デバイスの是非というよりも「友達を作る」というテーマだったりするわけで、論点を単純化しすぎないのはさすがディズニーといったところ。とはいえ、ジェンダー観などは古風なままだったりするので、全体的な印象としてはレトロなくらい。

 

なぜかメールを送信できるトイレトレーニング用のオモチャなど、個性溢れる新キャラも魅力的だったし、不意に涙してしまうシーンもあった。ガッツリ満足できる作品に仕上がっているので、安心して観に行ってね。

 

吹替で観たのだが、トイトレオモチャ役の佐野勇斗が上手すぎて驚愕。どんなに耳を澄ましても佐野勇斗の声に聞こえないんだもん。ビックリした―。