アイルランドの小説家クレア・キーガンによるベストセラー小説「ほんのささやかなこと」を映画化。ティム・ミーランツ監督作品。

 

1985年、アイルランドの小さな町で石炭商として働くビル・ファーロングは、妻と子どもたちとともに慎ましい生活を送っていた。クリスマスを控えたある日、配達先の修道院で彼は目を背けたくなる光景を目撃する。そこでは若い女性や少女たちが過酷な環境に置かれており、彼はその一人から「ここから出してほしい」と助けを求められる。ビルは、その現実を見て見ぬふりをすれば家族の平穏は守られると理解しながらも、良心の呵責に苛まれることになり……。

 

実在した「マグダレン洗濯所」を背景に、良心の呵責と自らの過去に苦しめられるひとりの男の姿を描いた作品。マグダレン洗濯所とは、主にアイルランドを中心に、19世紀から20世紀後半にかけて存在した女性収容施設。カトリック修道会によって運営され、「堕落した女性」や「道徳的に問題がある」と見なされた女性たちを収容し、労働と宗教的規律によって更生させることを目的としていた。しかし実際には、未婚で妊娠した女性、家庭内で問題を起こしたとされた少女、孤児、あるいは単に家族や社会にとって都合の悪い存在とされた女性などが半ば強制的に収容されるケースが多く、長時間かつ無報酬の労働や不十分な教育や医療環境など、かなり過酷な状況だったことが知られている。こういった施設で生まれた子供が勝手に養子に出されていた問題を扱った『あなたを抱きしめる日まで』など、今までも数々の映画で描かれてきた施設である。

 

本作がそれらの過去作と異なるのは、あくまでも主人公ビルだけにフォーカスしているという点だ。ほぼすべての尺がビルの表情を映すことに費やされているのではないかと思うくらい、ビルだけに集中した描き方をしており、映画としてかなり特殊。説明は最小限に抑えられているので観客は背景を推測する(もしくは知識で補う)しかないし、ビル自身も自分の考えをハッキリ口に出すことはほとんどない。能動的な鑑賞態度が求められる作品であり、『決断するとき』という邦題から推測されるイメージとはかなり違うので戸惑う人も多そう。

 

裕福とはいえないながらも自分で商売を成立させ、4人の女の子を育てて学校にも通わせているビル。町の中ではそこそこちゃんとしている部類であり、本人もそんな生活に満足している。でも、ビルは見逃せない。父親から暴力を振るわれている近所の子が町のはずれでトボトボ歩いていたら小銭を渡すし、修道院に少女が無理やり引きずられていく不穏さが気になってしまっている。

 

町の人間は全員「わかって」いる。修道院で何が行われているのか、そこにいる少女たちがどんな目に遭っているのか。生まれてくる子供たちがどこに行くのか。暴力を受けた少年がどんな日々を送っているのか。みんな「わかって」いるのだが、触れないように暮らしている。学校を運営しているのも、町に最も大きい影響を与えているのも教会であり修道院なので、逆らったら市民としての平穏が暮らしが脅かされてしまうのだ。

 

でも、ビルは見てみぬふりができなくなっていく。なぜならば、ビルの母親も「マグダレン洗濯所」の入れられていたかもしれなかったから。いや、普通に考えたら入れられていたはずだし、そうなったらビルは母親と引きはがされていたのは確実。そうならなかったのは、ビルの母親が極めてラッキーだったからであり、母親の雇い主がすべてを飲み込み対外的には体裁を繕いながらも、ビルと母親(と、本当の父親)を保護していたからなのだ。ときどき差し挟まれる回想シーンから、ビルがいかに幸運な道を辿ってきたのかが少しずつ分かってくる(回想シーンについても説明はほとんどないので推測しながら観てね)。だから、ビルは「マグダレン洗濯所」の少女たちに母親の姿を、自分の姿を重ねてしまうのだ。とても他人事ではいられない。ビルの抑えた表情や仕草(特に帰宅時の手洗い)で、ビルの内面の葛藤が少しずつ激しくなっていく様子を静かにゆっくりと描いていく。

 

原題は「Small Things Like These(ほんのささやかなこと)」。自分たちとは無関係の町の秘密。ただ目を反らしさえすれば、見なかったことにさえすれば、自分たちの平穏は確約される。でも……そんな葛藤を『決断するとき』としてしまうと、かなりニュアンスが変わってしまうんじゃないかなあという気はする。ドラマチックな展開を期待すると裏切られるけれど、良い作品だった。

 

 

 

 

ベルギーの小説家アメリー・ノートンによる自伝的小説「チューブな形而上学」を原作としたアニメ作品。イリス・バラードとリアン=チョー・ハンが監督をつとめた。

 

1960年代の神戸。ベルギーの外交官の家庭に生まれたアメリは、2歳半ごろまで外界に対してほとんど反応を示さない状態にあったが、ある時を境に一気に世界へと目を開き、強烈な感受性をもって日々を生き始める。自らを「神」であるかのように感じ、身の回りの出来事を魔法のように受け止めるアメリにとって、家政婦のニシオさんや家族と過ごす毎日は、発見と驚きに満ちた冒険だった……。

 

瑞々しい輝きに満ちた傑作。2歳半から一気に外界との境を取り払った少女が、急速に「世界」を享受していく描写の鮮やかさがまず素晴らしい。チョコレートの甘美で強烈な刺激、春の輝き、雨の喜び。自然に囲まれた日本家屋という限られた楽園の中で、全身で「世界」を感じながら成長していくアメリ。世界に生まれ落ちた子供が、どんな風に周囲を見ているのかを追体験するようなダイナミックな映像表現にワクワクした。『窓ぎわのトットちゃん』を観たときの感覚に近いけれど、前半は特にもっと原体験的な衝動に満ちている。

 

アメリが自分を「神」だと認識しているのも面白い。「自分がいなくなる瞬間を思い浮かべて」と問われたとき、自分だけが消失するイメージを持つ人と、自分と一緒に世界も消失するイメージを持つ人に分かれる、というのを昔なにかの本で読んだことがある。私は、私以外の器官から外界を認知することはできない。だから、この世界が本当に存在するのか、ただの私の妄想なのかは厳密にはわからない。子供の頃、そんな風に考えたことはないだろうか?アメリが自分を「神」だと言ったとき、私はなんとなく子供の頃のそんな感覚を思い出した。世界の中心は自分で、自分がいるから世界は存在している。そこから、もしかしたら世界は自分だけのものではないのかもしれないと気づいていくのが成長なのかもしれない。アメリ役の吹替は実際の声と心の中のモノローグで声優を変えているのだが、子供の声と心の中の大人の声というコントラストが物語のスムーズな解釈を促していたと思う。

 

戦後間もない時代ということで、彼らの暮らしにも戦争の影響が少なからずあり、それも物語に奥行きを与えている。日本人が外国人に持つ感情も控え目だがしっかりと描かれているし、「死」の気配も割と色濃く表現されている。生まれてきたこと、生きるということ。誰かを好きになること、信じること、誰かを失って悲しむこと。本作に散りばめられているのはありとあらゆる「本質」であり、こういう作品に出会えることこそが私にとっては喜びなのだ。

 

 

 

 

長久允監督作品。長久監督の『ウィーアーリトルゾンビーズ』に大感動したので期待していた作品。試写で鑑賞。

 

小林樹里恵は、カルト宗教を信仰する家庭で妹とともに厳しい教育を受けながら育った吃音の少女。父が亡くなった後も母による厳しい教育は続き、樹里恵は次第に家庭に耐えられなくなる。やがて彼女は妹を家に残したまま家出をし、SNSを頼りに新宿・歌舞伎町のいわゆる「トー横」へ向かう。そこで彼女は「じゅじゅ」という名前を与えられ、寝る場所や仕事、仲間を得る。初めて自分の居場所のように感じられる世界の中で、樹里恵は少しずつ自分の意思を持ち始めるが、家に残してきた妹のことも気がかりで……。

 

かなり確信をもって書くのだが、これはほぼある文学作品の翻案だ。吃音の主人公、脚の悪い友人、父親からの影響、優しい友人の末路、そしてラスト。これらはその作品の要素と一致しているし、過去に本作と同タイトルでその作品が映画化されたこともある。かなり正々堂々とモチーフにしているのだと思うが、テーマが違うのだ。その作品のテーマは「美」だが、本作のテーマは……いうなれば「愛」なのかな。

 

最近の森七菜は本当に良くて、どの映画でもガッツリ爪痕を残しているわけだが、本作の森七菜も素晴らしい。ティーンにしか見えないし、親の体罰を受け抑圧されてきたが、その内面には生や愛への渇望を抱えている少女を(台詞が制限されている状況で)見事に表現していた。

 

徹底して暗澹たる描写が続き、逃げ場がない。観ているだけでかなりエネルギーが吸い取られる作品だ。トー横キッズたちはすぐに結びつくが、彼らはニックネームで呼び合い、お互いの個人的な事情などにはほとんど触れない。ビジネスホテル?の一室にギュウギュウに雑魚寝して、刹那的な会話を楽しみ、ケタケタと笑いながら束の間の自由らしきものを味わっている彼らを、ギラつくネオンに照らされた白昼夢のように描く視線。私たち大人が目を背けている現実を、彼らが無意識に、または意識的に堕ちていっている地獄を、とんでもない閉塞感を持って描写していく覚悟。

 

三ツ葉と出会った樹里恵はあることへと足を踏み入れ、文字通り搾取されていく。妹を救い出すという目的のために自身を雑に扱う樹里恵の姿は痛々しく辛いが、本作ではそれはことさら悲劇的に描いたりもしない。もちろん煽情的にも描かない。大人から手を差し伸べてもらえず、自己肯定感を徹底的に奪われた子どもたちが何を思い、何を感じて、幼い判断力で何をしてしまうのか。そこに「自己責任」などという概念が穏当に介在しうるのか。彼らを待ち受けているシビアすぎる現実の救いのなさも含め、容赦がない映画のは間違いないが、本作を手ぬるく作っては何の意味もないだろう。

 

樹里恵が「トー横」にあると信じた仲間も、救いも、愛も、すべてが表層的なまやかしだと知った時、彼女がそこから離れる儀式を行うのは必然だ。支配される人生から、自分の人生を支配する立場へと変わるためには必要なこと。そう思わせる説得力が十分にある作品。個人ではなく社会構造を誠実に批判したとても真っ当で誠実な作品だが、観るには覚悟を持って。傑作。