父の想い | 光と波動と音楽と ふゆこのサンフランシスコ日記

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日常を綴るアラフィフ在米日記です。

 

 


 

 

父はお酒と睡眠薬を摂取し

眠っている間に脳溢血を起こし亡くなった

とのことでした

 

 

 

 

事故にもみえますが

わたしは何が起きたか理解していました

 

 

 

 

ぼこっと浮き出た血管が破裂しそうで

もうお酒は飲めない

そう言っていたから

次にお酒を飲めばどうなるか 父もわたしも知っていたのです

 

 

 

 

 

 

叔母(父の妹)いわく 父は最後の日

近所のスーパーへ行くと電話で話していて

 

 

「兄さんから徒歩で買い出しに行くと電話で聞いたとき

車でスーパーまで連れてあげれば良かった

重い荷物をもって大変だったろうに

兄さんは体力が落ちて歩くのも辛そうだったのに」

と叔母は悔やんでいました

 

 

 

 

父はその日買い出しに行き

わたしの娘の大好物、豚こつ料理をお鍋いっぱいに作ってくれて

料理を終えたあと

永遠の眠りについたのでした

 

 

 

そんなに弱った身体で

最後までわたしたちのために・・・

父の深い思いを知り涙が止まりませんでした

 

 

 

 

 

自宅で亡くなった為

発見後 父の亡き骸は検死へ運ばれ

 

訃報をうけたわたしは次の便で日本へ飛びました

 

 

 

 

好き勝手に自由に生きて

自己主張が強くて

感情の起伏が激しい

あんなに存在感のあった父が

この世からいなくなったなんて

 

もう二度と会えないなんて

信じられなくて

 

 

父の訃報が嘘であってほしいとどれだけ願ったことか

 

 


 

わたしは

12月に帰ると父に言えば、娘と孫会いたさに待っていてくれると

驕り高ぶっていた

 

 

 

 

そんな一時的な慰めに 惑わされる父ではなかった

近づく寿命を悟り 

自分の命と向き合っていた

 

 

 

 

「もう長くない、俺の身体だから俺が一番分かる」

そう言っていたのに。


「脳梗塞で再度倒れるまえに

自分の始末は自分でしたい」と示唆していたのに

 

 

 

もう一度会えるまで待ってくれると思っていた

また説得できると過信していた

 

 

 

分かってくれよ?と言っていたのに

全然分かっていなかった

 

 

 

人生最後の瞬間にお別れをしてくれたのに

わたしの態度は最低で

酔っぱらっている、と裁いて

冷たくあしらってしまった

 

 

 

二度とやり直しがきかない 父の最後だったのに

 

 

 

 

わたしは自分を責めて責めて責めまくって

 認めたくない現実に打ちのめされ

 

人生で初めて苦しくて息ができないほど

泣きながら

 

 

 

 

空港から葬儀社へタクシーで駆けつけると

不思議にも ほぼ同時刻に

父の遺体が検死から戻り 葬儀場に安置されました

 

 

 

 

父の生前ふと

「わたしはアメリカに住んでいるから

お父さんの臨終に間に合わないかもしれない 

覚悟してるけど それを思うと切ない」

と話した際に

 

 

 

 

「そんなこと気にすることない

俺が亡くなってからでも

お父さん、帰ってきたよって

それでいいじゃないか」

 

 

 

 

と父が話していたことを思い出して

わたしは冷たくなった父と対面し

 

 

「お父さん・・・・帰ってきたよ」

 

父に言われたとおり語りかけました

 

 

 

 

 何かが飛んでるような空