~西へ~(392) 71日目⑤ 日本100名城 竹田城Ⅴ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)





竹田城は、いくつかの映像ロケ地として使用されています。
影武者 (1980年)
天と地と (1989年、春日山城として使用)
暴れん坊将軍III (1989年、第71話「大暴れ! 但馬のヤッサ神輿」で使用)
魔界転生 (2003年、原城として使用)
あなたへ(2012年)
天地明察 (2012年、小田原城として使用)
忍たま乱太郎 夏休み宿題大作戦!の段(2013年)
軍師官兵衛 (2014年、石垣山城として使用)   など




再度、本丸を眺めて南千畳曲輪がら下城しました。


 南千畳横矢


 石切り場?

      

舗装された道(山城の郷からの道)に出ました。

       

登りの時は気が付かなかった休憩所を通過。

   

 -遺構について-
竹田城は別名「虎臥城(とらふす)」という。嘉吉年間、山名持豊(宗全)が播磨・丹波から但馬への進入路に位置する要衝の地に守護大名の一人である太田垣に、13カ年を費やして築かせた城である。築城当時の城には石垣は無く、砦(小規模な要塞)で曲輪を連ねただけのものであった。それが現存の様な壮大な石積みの完成された城郭に整備されたのは、廃城時(慶長五年~1600)にごく近い時代と推定されています。
石垣は近江穴太衆の手による穴太流石積み技法を用いた”野面積み”である。石材は現地のほか山麓付近から集めたものであろう。
遺構は最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下南方に南二の丸、南千畳、北方に二の丸、三の丸、北千畳を築いている。さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一廓が有り、主郭の中でも最も低い位置にあるため、南北に向かい合った塁状石垣列を築いている。
規模は南北約400m、東西約100mで今なお当時の威容を誇っており、山城として全国でも数少ない現存する遺構である。 -案内板より


 -城主について-
城は築城後、山名の家臣太田垣光景が初代藩主になったと伝えられ、以後太田垣氏は7代に渡りこれを守り継いだ。応仁の乱では2代藩主景近が京都へ出陣した際、夜久野(やくの)へ来襲した細川軍を景近の二男宗近が撃ち破ったという。
永禄12年(1569)羽柴秀吉は但馬へ攻め入り竹田城を攻略した。天正5年(1577)再び秀吉軍の攻撃をうけ竹田城は遂に落城した。このあと秀吉は弟小一郎を城代として城内の整備を命じている。同8年(1580)桑山重晴が城主となり、13年には四国征伐等で戦功のあった赤松広秀を竹田城主として入れた。広秀は、九州征討、朝鮮の役等に出役したほか、文化人としても儒学者藤原惺窩(せいか)との親交も厚く、領民には産業を奨めて深く敬慕された。
関ヶ原の役には西軍に属した。関ヶ原敗北後、徳川方として鳥取城を攻め、戦功をあげたにもかかわらず、城下に火を放ったことで徳川家康の忌避にふれ、鳥取真教寺において自刃し果てた。享年39歳、慶長5年10月28日のことである。 -案内板より


      

これまた登城時には気が付かなかった「竹田城跡 登城の心得」

       

登城口に戻ってきました。

    



登城前には開いてなかった「情報館 天空の城」を覗いて、
竹田城の登城を終えました。



          
       日本100名城スタンプ
          竹田城(56)






                                 つづく






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