~西へ~(391) 71日目④ 日本100名城 竹田城Ⅳ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


竹田城の始まりは、嘉吉年間(1441年~1443年)に当時の但馬守護
山名宗全が配下の太田垣氏に命じて築かせたのが始まりとされます(口碑)。
その後、山名氏の重臣である太田垣氏が初代・光景(誠朝という説あり)
以下7代に渡って城主を務めました。しかしながら、天正8年(1580年)
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による但馬攻めにより、竹田城は落城、太田垣氏
も没落したと考えられています。 -竹田城跡公式Webより


 本丸(高見殿曲輪)


 天守台(10.7m×12.7m)

天守台への石段等がないので天守には付櫓か何かがあったのか?と、
そこに居たスタッフの人に質問しましたが、「よくわからない」と言われた。
要所要所に居るスタッフの人は何のためにいるのだろう?
因みにボランティアではなく、町に雇われている人たちだそうだ。


 天守台から見た二之丸方面


 南千畳方面



 赤松広秀の治世
その後、羽柴秀長(城代)、桑山重晴と城主が続き、天正13年(1585年)
播磨龍野城主であった赤松広秀(斎村政広)が朝来郡2万石(その後2万
2千石)で入城します。現在に残る石垣遺構は、広秀が城主の頃に整備さ
れたと考えられます。また、広秀は「仁政の主君」として領民から慕われて
いたとされます。養蚕業や漆器産業を奨励し、現在に繋がる地場産業の礎を
築きました(漆器作りは、竹田の地場産業である家具製造業の元になったと
伝えられています)。他にも、近世儒学の祖とされる藤原惺窩を援助したり、
文禄・慶長の役により日本に来た朝鮮の儒学者姜沆に教えを乞うなど、
儒学の普及振興にも大きく寄与しました。-竹田城跡公式Webより

     

 関ヶ原の戦い、廃城
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こると、当初広秀は西軍に与し丹後
田辺城攻めに加わりました。その後、西軍の敗戦を知り竹田城に撤退した
ところ、東軍として鳥取城を攻めていた因幡鹿野城主亀井玆矩から来援
要請を受け出陣、功を挙げたとされます。しかし、鳥取城攻めの際に城下
町を放火したとの罪で自刃させられ、竹田城も廃城となったのです。
-竹田城跡公式Webより


 花屋敷曲輪



花屋敷曲輪へは立ち入りができません。



他にも見学路以外、立入禁止の所が多くありました。

    
  本丸・天守台石垣



櫓台の間を進みます。



竹田城には、天守を含め20基前後の櫓があったと言われております。



山麓から見えた木にたどり着きました。


 南二之丸(講武所))跡


 正門跡


 正門跡から振り返って天守台を望む


 南千畳曲輪

       
   芭蕉の句碑
 夏草や 兵どもが 夢の跡


                                 つづく






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