近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
(小さい画像はクリックで拡大します)
標高263メートルの久松山頂の山上の丸を中心とした山城部、山麓の天球丸、
二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる平山城部からなる梯郭式の城郭で
ある鳥取城に登城しております。

城郭の石垣としては大変珍しい巻石垣(天球丸石垣)を下から見て、

二ノ丸へ上がりました。

表御門跡

菱櫓跡(二ノ丸南側)

菱櫓跡
菱櫓は平面形が菱形に構築された櫓台の上に建物が建てられ、建物も菱形であった。
櫓台には二層の櫓が建ち一階は四間四方であった。
二ノ丸西南隅の三階櫓と東南隅のこの菱櫓の対比で鳥取城の風格を現わしており、明治維新までその偉容を誇っていた。
平成15年3月 文化庁 鳥取市教育委員会 -案内板より

菱櫓跡(二ノ丸南側)から大手方面を眺める


二ノ丸には修繕に使う石垣の石が置いてありました。

中坂稲荷神社
お稲荷さんに拝礼。

中坂稲荷神社の奥に「山上ノ丸」への道があります。

山上ノ丸へ上がる前に、

平山城部の最高所にある「天球丸」へ。

天球丸

天球丸から見ると復元された水路の様子が良く分かります。


天球丸跡
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、鳥取城の城主になった池田長吉の姉、天球院に由来する曲輪(平地)である。若桜鬼ヶ城主山崎家盛の夫人であった天球院が、山崎家を去って長吉のもとに奇寓し、この曲輪に造られた居館に住んだことから名付けられたという。
天球丸には、風呂屋御門と呼ばれる門、東側隅に建てられた三層の櫓などがあったことが古絵図などから知られている。三層櫓は享保5年(1720)の大火(石黒火事)によって焼失し、その後は再建されることはなかったようである。幕末頃には、武術の稽古所、御蔵が建てられたことが記録に残されている。
平成2年からの石垣修理に伴う発掘調査で、古い石垣や石段、三層櫓や御蔵の礎石が発見された。現在地の地下から発見された石垣、石段はこれまでその存在が知られていなかった遺構である。高さは約5メートルで、長吉入城以前に構築された小規模な曲輪をめぐる石垣の一部である。その後、大規模な曲輪の拡張とともに、天球丸の前身となるこの石垣は埋められ、現在に残る曲輪が造られたものと考える。
発掘調査では、瓦、唐津焼、伊万里焼等の陶磁器、釘、鎹、簪、煙管等の金属製品が出土した。また、少量ではあるが中国、朝鮮半島製の陶磁器も発見されている。 -案内板より

「天球丸の構造変遷」説明板

天球丸から大手道・三の丸方面を見る

天球丸から見た二ノ丸虎口(表門跡)

つづく
当ブログの無断使用は禁止です。
メッセージにて確認をして下さい。その上で、
文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。