近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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島後(隠岐の島)に上陸後、最初に向かったのは、
隠岐國総社 玉若酢命神社です。


玉若酢命神社
隠岐の総社として創建された神社で、島の開拓にかかわる神と考えられている玉若酢命を主祭神としています。現在の本殿は、寛政5年(1793)の建築で、様式は隠岐造です。三間社の隠岐造では、水若酢神社、伊勢命神社とともに最大規模です。社伝によると景行天皇が皇子を各国に分置した際に隠岐に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命だと伝えています。宮司を務める億岐家は「隠岐国造(おきのくにみやつこ)」(現在でいう市長)の末裔だといわれており、億岐家に保管されている2つの駅鈴と隠伎倉印は国の重要文化財に指定されています。毎年6月5日に行われる「御霊会風流(これえふりゅう)」では馬入れ神事や流鏑馬などの行事がおこなわれ馬付き達の勇壮な姿を見ることができます。 -案内板より


文化財案内
重要文化財 玉若酢命神社三棟
〔本殿・随神門・社家億岐家住宅・土地〕
附(本殿棟札・普請文書・随神門棟札・旧拝殿一棟・家相図・
社家億岐家住宅福神社一基・宅地)
(本殿) 天明7年(1787)棟梁鈴木儀八以下13人の隠岐の工匠を中心に本建設を開始し、翌8年に概ね完成した。2年の中断後寛政3年(1791)に工事を再開し、寛政5年(1793)に上棟したと普請文書が伝えている。隠岐造りとも呼ばれている。
(随神門) 嘉永5年(1852)の建設である。
(億岐家住宅) 享和元年(1801)の建設であり、社家住宅の特徴ある形式を伝えている。
一 重要文化財隠岐国駅鈴(附光格天皇御下賜唐櫃)
一 重要文化財銅印「隠伎倉印」
一 国指定天然記念物八百杉
根もとの周囲約20m、胸高周囲約9.9m、高さ約30m
むかし数百年生きながらえたと伝えられる八百比丘尼が若狭より隠岐に渡り、当社に参拝した記念に植えた杉なので「八百杉」と云う。また、この杉の根元に大蛇が生息していたが、この蛇は寝たままついに根に包まれてしまい今でも周囲が静かなときには、大蛇のいびきの音が聞こえて来ると。
いろふりて雲をぞさそう仙人の
植えて幾世か杉の一本
(宝永2年日置風水記)
一 県指定史跡 玉若酢命神社古墳群
一 県指定無形 玉若酢命神社御霊会風流
民俗文化財(6月5日祭礼 馬入れ神事)
平成6年3月 文化庁 島根県教育委員会 隠岐島後教育委員会 -案内板より

玉若酢命神社
神社の由緒
王若酢命を主祭神とし大國主命、須佐之男命外二柱の姫神を配祀、勧請年代は詳でないが式内社に列せられだ古社である、氷若酢命と共に本島を開柘した隠岐の二祖神であると伝えられている。
又神社名を総社と俗に称している。かっての隠岐國府の所在地で、明治初年項まではこの地を総社村といった。これは王朝時代國司が当國の総社として祭紀を執行した由緒に由るものである。
本殿(隠岐造)県指定文化財
外形の特徴。屋根は大社造に似て妻入だが平面形は神明造に似て横長の短形である。向拝は前面いっぱいに片流についているが、その両端は春日造と違って大屋根と離れている。尚棟に雀躍と称する一本木をおき両端は鬼板より出て反っていて、隠岐にのみに存する独特の神社建築である。寛政5年建立(1793年)
例祭神事御霊会建指定無形文化財
6月5日例祭には八頭の神馬が出役する。隠岐國総社である為、地区ごとの産土神を神馬に奉遷して馳せ参ずると云う信仰によるものである。安永8年(1779年)の神社記に、「往昔は48頭の神馬が馳参せるも今日八地区の八頭に止まる」とある。察するに当初は全島あげて祭礼に参加し、盛況を極めたものと思われる。
この地方に於ける大氏神の大祭に小氏神が馳せ参ずると云う神事は他には見れなく、風流にして貴重な存在である・依って県の無形文化財に指定する(昭和40年) -案内板より

随身門(国指定重要文化財)嘉永五年(1852)造営


八百杉
樹齢1000年以上といわれている杉の巨木で、人魚の肉を食べて八百年生きたという八百比丘尼(やおびくに)が若狭から来て植えたという伝説があります。八百比丘尼の伝説から名前をとって八百杉と呼ばれ親しまれています。杉の名前からも当時の隠岐と若狭の国との交流をうかがい知ることができます。また、八百杉の根元に住み着いた大蛇が昼寝をしている間に八百杉の成長により外に出られなくなったため、自らの不甲斐なさから夜な夜な鳴いているという伝説も残っています。 -案内板より


八百杉(国指定天然記念物)
根もとの周囲約20m、胸高周囲約9.9m、高さ約30m

拝殿

ご祭神は、
玉若酢命
(合祀)
大己貴命 須佐之男命 稻田姫命 事代主命 須世理毘売命 で、ございます。


本殿(国指定重要文化財)
天明七年(1787)に本建設を開始し、翌八年に概ね完成。2年の中断後寛政三年(1791)に工事を再開し、寛政五年(1793)に上棟したと普請文書が伝えている。
隠岐造りとも呼ばれている。

本殿

境内社・若宮


隠岐國総社 玉若酢命神社
御朱印
つづく
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