近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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山陰の覇者尼子氏が本拠・月山富田城に登城します。

まずは、歴史資料館にて情報収集。


何と、工事?中で、「山上の詰め城は入れない。」と。


一部ではなく全面的に立入禁止。アホか。
登城路はいくつかあるのに全山立ち入らせないとは、観光地として何を考えているのか?他の城址のように工夫をすれば良いのに。

山麓部だけの登城となってしまいました。


山中鹿之助幸盛(生年不詳~1578年)銅像
山中幸盛は尼子氏の一門である山中氏の出身で、病弱の兄に代わって家督を継承した。
幼名を甚次郎、元服後は幸盛と名乗った。
一般的には鹿介の名が知られている。
毛利氏による富田城攻めの際に、益田氏配下の武将である品川大膳との一騎打ちで名を馳せ、尼子氏滅亡後は尼子勝久を奉じて尼子再興戦で中心的な働きを行い、一時は富田城を包囲した。
しかし布部・山佐の戦いにおいて、毛利軍に敗北した後は徐々に劣勢となり、1571年頃に出雲から徹底した。
その後は因幡方面で転戦した後、織田信長の配下である羽柴秀吉の軍勢に加わり、播磨国(兵庫県)の上月城守備を命じられていたが、毛利軍の猛攻によって落城。
主君・勝久らは自害し、鹿介は捕らえられた。
鹿介は備中松山城にいる毛利輝元の下へ護送されたが、その途上松山城に程近い阿井の渡しにおいて暗殺された。 -案内板より


太鼓壇に続く郭・奥書院平に建つ
戦没者慰霊碑

詰の城

左右の曲輪を隔てる中の谷

花の壇(宗松寺平)

復元された侍所


花ノ壇
花ノ壇は、花がたくさん植えられていたことからその名称が付けられました。花ノ壇は敵の侵入を監視できることや、山中御殿(殿様の居住地)との連絡が容易なことから、指導力のある武将が暮らしていたと思われます。発掘調査により、花ノ壇には多くの建物跡(柱穴)が発見された部分(南側)と、ほとんど見つからなかった部分(北側)がありました。このことから花ノ壇の南側は武将の生活の場として、北側は戦の時に兵士達が待機する場として利用していたと考えられます。また2棟の建物は発掘された柱穴をもとに復元したものです。主屋を休憩施設、侍所を管理棟として活用しています。 -案内板より

各曲輪は谷と堀切によって仕切られています。

つづく
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