近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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小瀬甫庵の縄張りによる平山城で、江戸時代には松江藩の藩庁として、
出雲地方の政治経済の中心となった松江城(別名・千鳥城)に登城してます。


二之丸
本丸南側の一段低い平地で、江戸時代には中央に御書院があり松平家二代藩主綱隆の時まで藩主の居宅となっていました。御書院の北には御殿女中の住居である局長屋、南には御月見櫓があり、ほかに御広間、御式臺、御作事小屋、番所、井戸がありました。また石垣に沿って二之門、三之門、定御番所、御門東之櫓、下雪隠、太鼓櫓、腰掛、中櫓、南櫓がありました。現在、西半部には明治36年建築の興雲閣(県指定文化財)と明治32年に東照宮を移築した松江神社があります。 -案内板より

二之丸跡

太鼓櫓(復元)


太鼓櫓は、二之丸の北東角に建てられた平屋建ての櫓です。
中櫓と同規模の櫓ですが、入口に庇が付くところが異なります。
江戸時代前期から幕末までの文献や絵図には、いずれも「太鼓櫓」という名前で記されているように、城内に時刻や号令を告げる太鼓が置かれていた櫓であったことが考えられます。 -案内板より



史跡松江城二の丸
二の丸は、本丸の南側に位置する南北72間(約141.8m)、東西62間(122.1m)の曲輪です。
江戸時代の二の丸は、藩主が公的な儀式や政務をつかさどる「御廣間」や生活をしたり私的な接客や面会などを行った「御書院」はじめ「御臺所」、「御式臺」などの御殿が建ち並び、周囲には時打ち太鼓をおいた「太鼓櫓」や、城下の監視や倉庫に使われた「南櫓」、「中櫓」をはじめとする5つの櫓などがありました。
これらの櫓、御殿などの建物は、明治維新とともに無用の施設となり、明治8(1875)年に取り壊されました。
その後は公園として利用されてきましたが、平成5(1993)年に策定した「史跡松江城環境整備指針」に基づき、江戸時代の遺構復元整備することとなりました。
事業は、発掘調査の成果をもとに、古写真、絵図、文献史料を参考にして、「南櫓」、「中櫓」、「太鼓櫓」、「井戸屋形」などの建物および「塀」を実物大にて復元し「御廣間」跡、「下御臺所」跡、「御式臺」跡を平面整備し平成13(2001)年春に完成しました。 -案内板より

中櫓(復元)


中櫓は、二之丸の東側に建てられた平屋建ての櫓です。
江戸時代前期の文献や絵図には「中櫓」または「東ノ矢蔵」という名前が見られ、幕末には「御具足蔵」とも呼ばれていました。
この櫓の用途は分かっていませんが、「御具足蔵」という名前のように、中に武具などを保管する倉庫があったことが考えられます。 -案内板より

南櫓(復元)


南櫓は二之丸の南東角に建てられた2階建ての櫓です。
江戸時代前期の文献や絵図に「南櫓」または「南ノ弐重屋くら」という名前が見られ、幕末には「御召蔵」とも呼ばれていました。この櫓の用途は分かっていませんが、建てられた位置から考えると、城下町の南東方向を監視する櫓であったことが考えられます。 -案内板より

二之丸南櫓から見た内堀と三之丸跡(現 島根県庁駐車場)
つづく
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