~西へ~(338) 64日目② 日本100名城 松江城Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


護國神社にて英霊に感謝の誠を捧げ、一旦、内堀の外に出て大手に。



 史跡松江城案内図
松江城は慶長12年(1607)から足かけ5年の歳月を費やして堀尾吉晴(ほりおよしはる)によって築かれました。
以来、堀尾氏3代、京極氏の治政(ちせい)を経て寛永17年(1638)からは松平氏が城主(じょうしゅ)となり、その間一度も戦乱に巻き込まれることもなく明治維新を迎えました。山陰地方で唯一、天守(てんしゅ)を現存する貴重な城郭(じょうかく)です。 -案内板より



 内堀(奥に見えるのが北惣門橋)

     
 堀尾吉晴(1544年~1611年)像

 

大手木戸門跡を入ると「馬溜跡」です。

     

史跡松江城 馬溜(うまだまり)
ここは、馬溜と呼ばれる一辺46mほどのほぼ正方形の平地です。入り口には大手柵門、右へ曲がるとしゃちほこをつけた壮大な大手門がありました。西側にある高さ13mの高い石垣や南・東側の腰石垣の塀、さらに内側の高さ1mほどの石垣による土塁でこの平場を四方から守っていました。この入り口の形態は桝形と呼ばれるもので、敵兵の直進を防ぎ、侵入の勢いを弱める機能と、出撃の際にこの馬溜に城兵を待機させ隊形を整える機能を果たしていたようです。発掘調査により、江戸時代のものと思われる井戸が2箇所と内塀へ通じる石組み水路などの遺構面が現在の地面より約50cm下に見つかりました。 -案内板より


 大手門跡

    

 史跡松江城二之丸下の段の遺構
この二之丸下の段一帯は、江戸時代に米蔵や屋敷などのあったところである。
米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていたが、洪水や飢きんが、しばしば発生するようになったので、米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようになった。
城郭図によれば、築城時(17世紀)にはL字型に建つ2棟の米蔵と門や塀が存するだけであった。
延宝7年(1679)には、越後騒動により配流された高田藩の忠臣荻田本繁(主馬)と、その子民部、久米之助のためにこの地の一角に「荻田配所」が建造された。
さらに18世紀以降になると「荻田稲荷社」をはじめ米蔵が新たに5棟も新造されたが、この内3棟は天保年間に建てられたものである。
やがて明治維新となり不要となった建造物群は明治8年に至り天守閣を除いてことごとく取り壊されてしまった。
その後、一帯は運動場となり明治33年には島根一中と鳥取中により両県初の野球試合が行なわれたり、諸種の建物、施設も出来て文化やスポーツの場にも使われたりした。
松江市では、昭和47年度から3次にわたり米蔵を中心に発掘調査を実施した結果、今見るような石積基壇の遺構が発見され、ほぼ縄張図や城郭図どおりの規模であったことが確認された。
  昭和51年3月   松江市教育委員会  -案内板より



 二之丸下の段

    

 二之丸下ノ段地区解説板
ニ之丸下ノ段(にのまるしたのだん)
 東西100m、南北210mの広大な平地で江戸時代には米蔵がたくさんありました。北には屋敷地、南には幕府の頃。北には屋敷地(やしきち)、南には幕末の頃、御破損方(ごはそんかた)・寺社修理方(城や神社仏閣の建物修理事務所)がありました。
 堀尾時代の米蔵跡は、調査後平面整備しました。
 御破損方・寺社修理方跡は発掘調査の結果、二棟の礎石(そせき)建物跡が確認され、同じ大きさの上屋を建て、内部を茶店,売店に利用しています。 -案内板より


     

太鼓櫓を左手に見ながら二の丸に上がります。


 三ノ門手前右手の帯曲輪

  

松江城の石垣は、打込はぎといって石切り場で切り出した石の平坦な面の角をたたきつき合わせやすくした積み方がほとんどで、慶長年間に築かれた城によく見られます。又、自然石やその割石を積んだ野面積や石を全面加工した切込はぎも一部に見られます。
 ここの石垣台にはよく見ると分銅の形をした記号がのみでたくさん刻まれています。これは松江城を築いた堀尾家の紋です。また、二の丸下の段の西側石垣にも△印などたくさんの刻印を見つけることが出来ます。
 刻印は、工事の分担や石切り場の区別、合わせ印など土木工事を円滑かつ組織的に行うために付けられた記号と考えられています。 -案内板より


     
                  石垣の刻印

  
   二之丸石垣
 

更に上り、三ノ門跡→二之丸へ。





                                 つづく






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