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濱田護國神社の鎮座します浜田城に登城します。

浜田城復元CGI
浜田護国神社正面左手の方向から見上げた復元図です。山頂に構えられた本丸には天守の代用である高さ約14mの三重櫓がそびえ、その右手に本丸一ノ門と一般には多聞櫓と呼ばれる六間長屋の屋根が見えます。本丸の下には出丸の石垣と塀が見え、さらに右手にはニノ門が見えます。
平成17年3月10日 浜田市教育委員会 -案内板より


島根県指定史跡 浜田城跡 指定 昭和37年6月12日
浜田城跡は別名亀山城とも呼ばれ、北の松原湾と南から西にかけて流れる浜田川によって囲まれた標高68mの独立丘陵上に築かれた平山城です。
元和5年(1619)に伊勢松坂から古田重治が5万4千余石の藩主としてこの地に移り、元和6年(1620)2月に築城工事に着手、同年11月には地普請が終わり、元和9年(1623)5月には城および城下町が整ったようです。
本丸の北西隅には、高さ14mの三重櫓の天守があり、二の丸には焔硝(えんしょう)蔵、本丸常番所、時打番所などが配置され、中の門外の三の丸には御殿、諸役所、御用米蔵などがありました。
城下町は、城の周囲に武家屋敷を、浜田川以南に町家を設けています。
浜田城主は、古田家(2代・30年)から、松平周防守家(5代・111年)、本多家(3代・11年)、再び松平周防守家(4代・68年)、そして松平右近将監家(4代・31年)と変わり、慶応2年(1866)7月に第2次長州征伐で自焼退城となり、その役割を終えました。
-案内板より

濱田護國神社の社殿横をぬけ、苔生した坂を上がります。


浜田城というと最初に思い出すのが、第2次長州征伐の時「幕軍が大敗」
の報を聞いた城主・松平武聡(徳川慶喜の実弟)は、深夜に密かに浜田
城から船で脱出。それを聞いた城内に残っていた家臣たちは、戦意を喪失
させ、自ら城に火をつけて退去した史実です。

三の丸石垣


浜田県庁の門
この門は、元々津和野城の門ですが、明治3年(廃藩置県)の浜田県設置にともない、その県庁舎として明治4年に門を含む建物(大広間)が現在の浜田郵便局の地に移され、明治5年に上棟式が行われています。したがって、浜田城ゆかりの門ではなく、また置かれている場所も本来は門のない位置にあります。しかし、この門は明治9年に浜田県が島根県に合併されて以降も、那賀郡役所、那賀地方事 務所等の正門として充用され、昭和41年に浜田合同庁舎が移転するまでの、明治・大正・昭和の地方政治を見つめ続けてきました。また、 津和野城の門としても貴重であることから、昭和42年に島根県から浜田市に譲渡され、この 地に移築されました。
平成26年7月20日 浜田市教育委員会 -案内板より

浜田県庁の門(津和野城の門)移築構造物

移築門を過ぎ、整備された石段を上がります。

階段状に組まれた石垣

三の丸石垣


三丸と出丸石垣
左やや上の階段に人頭大の石が集中して見られます。これはこの上に配置された出丸と呼ばれる曲輪の石垣をmうぃじ34年~36年にかけて撤去し、階段を整備したために、石垣の裏込め石が露出したものです。
したがって、本来は正面に高い石垣があり、ここで折れ曲がって、背後にある二ノ門へ向かうルートしかありませんでした。
背後にある階段を昇ると「三丸」と呼ばれる曲輪となります。「浜田城石垣絵図」によれは、この「三丸」から山頂の本丸までの石垣に全て塀を廻らせ、「三丸」から山麓の中ノ門までの石垣には塀を設けていませんでした。浜田城は周囲からよく見える山頂部周辺にのみ廻らせた「見せる城」とも評価できます。
平成15年8月20日 浜田市教育委員会 -案内板より
つづく
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