近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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浜田城は、標高67mの丘陵城に築かれた平山城であり、北は松原湾を介して日本海を望み、西南には城を囲むように浜田川が流れている。海陸ともに交通の要地であった。
元和5(1619)年に伊勢松坂城主だった古田重治が大坂の陣の功により5万5千余石でこの地に転封となり、浜田川河口部に城地を定めると共に城下町の範囲を定め、古くからあった町を整理して城下町の基礎を築いた。翌年2月に築城に着工、元和9(1623)年5月には城と城下町の工事を完了した。
元和の一国一城令以降に新城を築いた例は、この浜田城を含めても、明石城、福山城などわずかであり珍しい例である。
本丸は城山の頂上部にあり約60m×約50mの規模をもち、北西の隅には三重の天守が建てられた。
本丸から南に向かって、城山の中腹に二の丸、山麓に三の丸があり、周辺は石垣で固められている。
浜田城の城主は古田家(2代)以降、松平周防守家(5代)、本多家(3代)、松平周防守家(4代)、松平右近将監家(4代)とめまぐるしく替わった。慶応2(1866)年に第二次長州征伐で敗れたために、松平武聡は退城し、浜田城は近世城郭としての歴史を終えた。 -案内板より


本来の登城路を上り、三の丸に。そして、ニノ門。


ニノ門跡
正面の石垣と通路を挾んだ左側の石垣(現在は石垣が崩落し、土塁状となっています)との間にニノ門がありました。ニノ門は階下に門、階上に長屋をのせた櫓門で、両脇の石垣上にはその長屋に接して塀を廻らせていました。記録には「渡門」「廣サ ニ間三間四方」とあります。
この門をくぐると高い石垣で方形に囲まれた空間が設けてあり、進路を阻む構造となっています。
これは敵の侵入を封じ込めるとともに出撃の際に兵を待機させる等、攻守に強固な機能を備えています。
この様な出入口を一般に枡形虎口と呼び、近世城郭を構成する要素のーつとされています。
浜田城では本丸の正面に位置するこのニノ門にしか、この様な構造を採用しておらず、重要な城門といえます。
平成15年8月20日 浜田市教育委員会 -案内板より

ニノ門跡

坂虎口になっており、その先が二の丸になってます。

二の丸側から見たニノ門

二の丸から出丸方面を眺める


本丸跡
左正面の階段を登ると本丸となります。本丸は記録に「821坪半」(約2715平方m)とあり、その周囲には高い石垣を築くとともに塀を廻らせ、塀には挟間と呼ばれる丸、三角、四角形の窓を79個所にあけて、鉄砲や弓矢で射かけられるようになっていました。
本丸への出入口は階段上端に設けられた「本丸一ノ門」しかありませんでした。
この門をくぐると低い石垣を方形に囲った「三間四方」の空間がありました。
なお、現在残されている門の礎石や排水路等は安政4年(1857)に改修されたものと考えられます。
本丸内の建物としては、門の右横に接して六間長屋と呼ばれる倉庫的な建物(浜田城では櫓とされていない)があり、本丸左奥には三重櫓(天主)がありました。また、5坪程度の玉蔵(鉄砲等の弾丸を収納)もありました。
平成15年8月20日 浜田市教育委員会 -案内板より

本丸一ノ門跡


本丸中央に建つ報国忠勇之碑跡(台座のみ)


三重櫓(天守)
三重櫓はこの右側に建っていました。この櫓が実質的な天守であり、「上ノ重五間四面(25坪5厘3毛)中ノ重七間四面(67坪二厘五毛)下ノ重東西9間 南北7間(67坪9厘4毛t)の規模を有し、高さは4丈6尺1寸、鯱の高さ4尺6寸で、約15mありました。 文政10年(1827)の記録では、浜田浦(現浜田漁港周辺)から見ると「森の中に城少し見ゆる」とあり、この櫓が見えていたと考えられます。
ただし、そのに外観は二層に描いた絵図と三層に描いた絵図とがあり、明らかではありません。
正面の展望は城下と浜田浦の各一部や海岸線の先に長浜湊(現浜田商港周辺)が望め、山並みの高所が大麻山となります。ここを舞台に慶応2年(1866)第二次長州戦争(石州口の戦い)があり、大村益次郎率いる長州軍に幕府軍が敗れ、浜田藩は自焼退城という運命をたどりました。
平成15年3月3日 浜田市教育委員会 -案内板より


外ノ浦の湊と松原湾
正面の深く入り込んだ入江が外ノ浦です。この外ノ浦は、天然の地形を利用した風待港で、
西廻り航路が整備された寛文12年(1672)以降、瀬戸内方面と北陸方面とを結ぶ中継点として、
諸国の廻船が多数入港する浜田藩で最大の物資流通拠点でした。
廻船の停泊場所には廻船問屋が建ち並び、その顧客について記された『諸国御客船帳』によれば、米・塩・砂糖・種油等が荷揚げされ、扱苧(麻糸の原料)・干鰯・銑鉄・半紙・塩鯖・焼物等の地元特産品が積出しされていたことがわかります。また、正面の岬上には、浜田藩のために鎖国の禁を犯して密貿易を行い、天保7年(1836)に捕らえられて死罪となった会津屋八右衛門を顕彰した「會津屋八右衛門氏頌徳碑」があります。
平成15年3月3日 浜田市教育委員会 -案内板より


海と浜田城
浜田城は平山城であるとともに海城とも呼ばれ、海上交通を重視した城でした。
寛永3年(1626)、スペインの宣教師ディエゴ・デ・Sは船上から築城されてまもない浜田城を見て、「立派な城である」と報告しており、海上から三重櫓等が望める形で築城されていました。
廻船は眼下の松原湾入口で帆を降ろし、外ノ浦の湊へ小船で曳航されていました。
その湾入口をはさんだ正面右側の丘陵地(夷ノ鼻・日和山)に、方角石が設置され、船頭たちが
天候や潮の流れ等の日和を判断しました。また、浜田川をはさんだ正面の丘陵高所には、灯台としての役割を果たした遠見燈明堂が設けられていました。なお、背後の台座は、明治36年建立の「報国忠勇之碑」で、本来その上に砲身と弾丸が設置されていましたが、昭和18年に供出され、現在に至っています。
平成15年3月3日 浜田市教育委員会 -案内板より

天守跡付近に残る礎石

出丸
浜田城の出丸は、本丸や二丸、三丸と呼ばれる中心的な曲輪に突き出し、独立的な曲輪として配置されています。そのため出丸という名称が付けられたものと考えられますし、また、「本丸脇千人溜り」とも呼ばれていました。記録には、「二ノ門ヨリ出丸ノ方石垣塀 十二間(約22m)」とあって、二ノ門からの位置が示され、規模についても 「出丸 東西十三間二尺(約25m) 南北十三間一尺(約25m) 此坪数百三十五坪三歩」と記されています。 出丸への出入口は、二丸の曲輪石垣横にあった道と出丸の右手奥にあった出丸木戸しかなかった。 出丸木戸を出ると、本丸石垣の周囲を廻る道がありました。
平成15年3月10日 浜田市教育委員会 -案内板より


護國神社に戻り、城跡を出発、次なる地へ。
つづく
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