~西へ~(309) 59日目⑦ 清流日本一の高津川水源公園(一本杉神社) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


津和野を後にして、目指すは「清流日本一 高津川」です。



県道226号→県道3号で「吉賀町」へ抜けます。



北海道以来かな?「熊没注意」の標識がありました。



国道に出て南下、清流高津川と並行して走ります。



高津川は、島根県鹿足郡吉賀町田野原に源を発し、鹿足郡津和野町日原、
益田市を経由して日本海に注いでいる一級河川で、唯一、支流を含めて
ダムが一切無い清流です。規模の大きい河川ながら、上中流域に大きな
人口密集地が無く、国土交通省の2007年度の水質調査で、一級河川の中で
第1位に選ばれ、以後複数回にわたって清流・日本一になってます。




高津川の水源がある「水源公園」に到着。

     
   
 河川争奪の復元図 (左)
一級河川高津川は現在、この水源から流域面積1090㎢、延長81kmの河川となって日本海に流れています。
太古には、山口県境を越え宇佐川、県境にある深谷川も高瀬川でしたが、河川争奪によって、錦川に奪われて切頭川となったものです。河川争奪は、柳ヶ瀬付近のものが約3万年前、向峠、新田付近のものが約1万年前と推定されます。
河川争奪の場所(争奪の肱)は、宇佐川では柳ヶ瀬付近、深谷川では初見、新田、向峠付近で100m以上の渓谷となっています。初見、新田、向峠地区の農地の下には旧河床と思われる石礫が残っています。
下流の日野原地区の「八町八反八畝八歩の一枚田」も、高津川の曲流蛇行地で淵であったものが、切頭されて流水の減少により泥田化したものです。河川争奪により、流水が減少したため、樋口~九郎原間約2.5kmは、現在は水無川となっています。 -案内板より


 一本杉(いっぽんすぎ) (右)
樹高約20m、根元廻り約5m、樹齢1000年以上
*昭和50年(県名樹百選指定)、昭和30年(県名木指定)
古代、この辺りは、杉などの原生林が生い茂った大湿原地であった。その後この辺りに人々は沼沢を利用して稲作狩猟を行い生活が営まれ始めました。周辺には「星坂弥生遺跡」として弥生時代の土器や石器が多数出土しています。
古賀記(郷土史書)によれば寛治年中(西暦1087年頃)、井谷郷三郎が人を連れて高津川の水源を訪ね、この地富貴村(古名)に入り原始林を伐り溝を抜き、田畑を拓き村里を定めたとあります。大沼の近くの清い水の湧き出る処の大杉の霊が遂にこれを伐ることを思い止まらせたのか、ただ一本だけ伐り残されたのがこの杉です。
村人はこの杉の緑の変化を見て村の盛衰を判断し、或いは早魃の時は藁で大蛇を作り、この池で大蛇とともに輿じ祈り神に雨ごいを願ってきました。ゆえにこの池を「大蛇が池」と言ってます。またこの付近から馬が生まれて近くのしつげんで自由に育ち疾風のごとく水陸を走る古今の名馬となったと伝えられています。この為「早馬の池」とも言われています。 -案内板より


      
            一本杉と大蛇が池(早馬の池)



一本杉に出雲から逃げてきたヤマタノオロチの魂が宿り、水が沸いて
高津川となったという言い伝えがあり、祠が鎮座していました。



                                 つづく






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