近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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津和野城から下城、その山麓に鎮座します「 太皷谷稲成神社」に参拝します。

表参道には、スゴイ数の鳥居が並んでいます。


太鼓谷稲成神社 御由緒(たいこだにいなりじんじゃ)
本社は霊峰青野山を東に仰ぎ、太鼓谷の聖地を神域と定め安永2年5月15日、石州津和野7代城主亀井矩貞が三本松城の安穏鎮護と住民の福祉多幸を祈願するため、城山の聖地太鼓谷の峰に勧請して以来、幾星霜の間歴代城主の崇敬厚く、衣食住の大祖神、開運厄除・産業発展・福徳円満の守護神として崇敬され、願望成就、商売繁昌、盗難・紛失物の手戻り等の霊験は衆人の普く知るところである。
廃藩後一般衆庶の崇敬に移されてより参拝者は四季を問わず社頭は常に般賑を極めている。
近時参拝者の激増に鑑み、社殿の改築のため1億7000万延の浄財を以って七星霜の歳月を費やし宏壮華麗な社殿の建立を見た(昭和44年竣工)。
表参道に林立する約1000本の朱の鳥居は8割が願望成就の奉納であって2割が将来への立願のしるしである。現在賓客数は年間100万人を数え西中国の一大霊場であり、日本五大稲荷の一社であることも宏大無辺なる神徳の賜物である。
因みに大正13年北白川大妃殿下が御参拝になり、後に御神宝の寄進があり、境内に宝物殿を設置し次いで養老文庫・茶席半峰亭・儀式殿・結婚式場・披露宴会場(300名収容)・参集殿等が設けられている。現在別表神社(旧官国弊社並)に列せられている。なお、全国稲荷の社寺においては、神道の伏見稲荷系統と仏教の豊川稲荷系統とに大別され、神道では稲荷・稲生・稲成に分かれ、稲荷は30000有余、稲生は22社、稲成は当社1社のみである。 -案内板より


「鳥居をくぐるときは一礼を」と言っている人はどうするのだろか。
こういう場合は無理ですよね。
(神域と瑞垣ないに入るとき、出るときに一礼をするものですからね)


途中で、数えるのを諦めました。


太皷谷稲成神社公式Webによりますと、
表参道
石段 263段
鳥居 約1000本

神門(昭和四十七年十二月竣工)
中央の門は、新年や祭事開かれるそうです。

正面左に社殿を拝しますが、まずは右手に鎮座します「元宮」に参拝します。

元宮(旧熊野神社)


江戸後期の安永2年5月15日、藩主七代亀井矩貞公により、京都伏見より稲荷大神を、城内の一角である太皷谷の峰(津和野城の鬼門)に勧請し、稲成神社(=現在の元宮)が建立されました。
慶應3年7月、津和野藩の神社整理により、津和野乙女山に鎮座の熊野権現社を稲成神社に遷し、相殿として奉斎。以来、社号を熊野神社と称しました。
大正12年、現社殿を建立し、昭和2年に熊野神社から稲成神社と改称しました。
昭和44年、新社殿建立につき、当旧社殿を「元宮」と改め、熊野・稲荷両信仰の神域として現在に至ります。
※熊野権現社について…室町中期(15世紀中期)に津和野城主吉見氏により建立されました。吉見氏歴代の崇敬は非常に厚く、吉見正頼(毛利元就重臣)の制定した吉見七社の一社に列しました。
-太皷谷稲成神社公式Webより


御由緒
室町中期、津和野城主吉見氏により、元宮の創始となる熊野権現社を津和野の乙女山に建立し、のち吉見正頼(毛利元就重臣)の制定した吉見七社の一社に列し、特に篤い崇敬を受ける。安永2年(1773)京都の伏見稲荷狼を太鼓谷の峰に勧請し、稲成神社を建立。
慶応3年(1867)熊野権現社を稲成神社に遷し、相殿として奉斎、以来熊野神社と称した。大正12年(1923)現社殿を建立し、昭和2年(1927)には稲成神社と改称した。昭和44年、新社殿建立につき、当社殿を「元宮」と改め、熊野・稲荷両信仰の神域として現在に至る。 -案内板より

御祭神 伊弉冉尊(熊野大神)、宇迦之御魂神(稲成大神)

拝殿内には「随身」さまが。

本殿(背面)
つづく
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