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津和野城の歴代城主は、吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間ののちは、
明治維新まで亀井氏が11代225年にわたり在城しました。


尾根道を進むとバイクが停まっており、車道が通ってました。
(リフトに乗らなくても楽々登城出来た様です。)


国指定 史跡 津和野城跡 史跡指定 昭和17年10月14日
第1次追加指定 昭和47年5月26日 第2次追加指定 平成19年7月26日
津和野城は標高362mの霊亀山上にあり、山麓からの比高は約200mを測る典型的な山城である。築城は吉見頼行・頼直が永仁3年(1295)から正中元年(1324)にかけて行なったと伝えられる。吉見氏が築城した中世山城は、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)に3万石の大名として入城した坂崎直盛によって、高石垣を有する近世城郭へと大改修された。元和3年(1617)に因幡国鹿野城より亀井政矩が4万3千石の大名として入城後は、亀井氏11代の居城として明治維新まで続いた。
津和野城は、本城のほかに出丸(別名:織部丸)がある一城別郭の城であり、その間に大手道を設けるなど極めて実戦的な山城であった。かつては本丸・二ノ丸に三重天守と櫓があったが、貞享3年(1686)の雷火で焼失した後は再建されなかった。明治7~8年(1874~1875)に城の建物の大半は解体されたが、現在も山上には段状に連なる壮大な高石垣が残っており、人力で行われた大土木工事の跡を見ることができる。なお、津和野藩の藩庁は、城山の北東側の山麓にあった。
平成26年11月 津和野町教育委員会 -案内板より

津和野城での実戦は、天文23年(1554)、吉見氏十一代正頼が、陶晴賢
(すえはるたか)の大軍をこの城で迎えうち防戦した戦史が残ります。

幾重にも重なる石垣が見えてきました。城の中心部です。

東門跡(坂崎氏以後亀井氏時代の大手門)


東門跡
ここは当城の東門、坂崎氏以後亀井氏時代には大手門となっていたところである。
ここをはいって右手に見る石垣が三段になっているが、これは三段櫓の跡、この三段櫓跡を右に見て上がった所が西門跡、その右手を上がって馬立跡、台所跡、海老櫓跡と続く。
また、ここをはいって左へ廻って行くところが腰曲輪で、これを行くと隠門に出る。
左手の上が天守台で、かつては三層の天守閣があった。天守台を右に見て上がった所が太鼓丸跡、その上を世間台といい、ここから城下が一望できる。 -案内板より

三段の石垣(三段櫓跡)
櫓台が三段になっており、それぞれに平櫓が置かれていた。


東門跡から見た腰曲輪
東門跡と同様に石垣が崩れて立ち入り禁止になってます。


上から見た三段の石垣(三段櫓跡)
三本松の城 (右)
三本松城は、高石垣・瓦屋根・天守閣を備えた典型的な近世の山城であった。左側の石垣は、天守閣を支えた石垣だったが、貞享3年(1686)、雷に打たれて天守は焼失した。その後天守は再建されることなく、幕末を迎えた。図には東門が描かれ、その門をくぐって右側に二層の櫓門に続く。本瓦葺に鯱を載せた堂々たる櫓である。
石垣が高くそびえ、眼下の城下町の一望は絶景である。

天守台と三十間台の石垣

西門跡

国指定史跡 津和野城跡(馬立・台所・海老櫓)
ここは本丸の西、当城の三の丸にあたる。階段を上って左は馬立と言われ、乗馬をつなぎとめておく所、右は三段櫓の最上部の建物へつながる。
馬立の奥には台所が有り、石列による排水の機能が見て取れる。
さらに奥には海老櫓といわれる建物があり、搦手(からめて)(喜時雨側)に直面する望楼であった。
周囲は塀で囲まれ、その支柱を支えるための控え石がおおむね一間(1.8㍍)おきに置かれている。 -津和野町教育委員会


馬立 台所

馬立側から見た天守台と三十間台の石垣

馬立から見た三段の石垣(三段櫓跡)と東門跡

上から見た西門櫓台の石垣

西門櫓台の石垣
つづく
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