~西へ~(303) 59日目① 日本100名城 津和野城Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
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59日目。陽の出るのもすっかり遅くなり、暗い中での身支度。



道路にある温度計は「13℃」 完全に凍死レベルです。



そんな中、到着した本日1つ目の目的地は「津和野城」です。

     

津和野城は津和野盆地の南西部に横たわる標高367mの霊亀山に
築かれた山城で、その縄張りは、南北3kmに及び、中世には全山が
城塞として使用されいたとされます。



「元」侵略にさいして、西国防備を命じられて西石見吉賀地方に下向した
吉見頼行が、永仁三年(1295)から築城にかかり、約30年の歳月を費やし
完成したと伝えられます。



遺構は、山頂部ということで、リフトを使って楽々登城しました。

      

山上をけずり削平地とし、山の峰つづきに堀切をつくった典型的な山城
でありました。石垣構築は室町末期のものといわれてます。


 堀切
山城や丘城で尾根の方向に尾根続きを直交に遮断して敵方の侵入や攻撃を防止することを目的として堀削した構造をいう。中世の山城ではよく用いられる手法で、二重三重の堀切も多くまた両端を堅堀にすることも良く見られる。 -案内板より



 関ケ原の戦いの戦功で入城した坂崎出羽守成正は、城郭の大改築をは
かり、本丸の北方約200mの山頂に側面防衛のための出丸である織部丸を
築きました。今日残る遺構の大部分がこのとき築かれたものです。

     
  三本松城(室町時代後期(戦国時代)までの呼称)出丸
出丸は、坂崎出羽守直盛の弟である浮田織部が指揮をして、戦略上必要な北の防塁として整備された。門の両側には二層の隅櫓を配置し、高塀とともに数多くの鉄砲狭間が設けられた、鉄砲戦に備えた堅牢なつくりとなっていた。
直盛はいわゆる"千姫事件"をおこした責任を取って自死したといわれ、津和野を治めたのはわずか16年のことだった。 -案内板より



 隅櫓の石垣


 出丸虎口


  津和野城出丸跡
 この出丸は、慶長5年(1600)吉見氏に代わり,、翌年津和野へ入城した坂崎出羽守直盛が津和野城改築の時に築いたもので、築城の指揮を直盛の弟で、家老浮田織部がとったことから、別名「織部丸」ともいわれる。
 出丸が、本城を守るための戦略上、防塁としての役割は必要不可欠であり、特に坂崎氏の時代には鉄砲に頼る実践的な戦術が進み、この場所を強化する必要があった。
 出丸あたりは東西約18m、南北44.5m.あり、門を入ると右に番所があり、石垣に沿って塀が巡らされていた。出丸から本丸東門までの距離は約244mある。
-案内板より



 出丸跡


 出丸からの眺め




                                 つづく









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