~西へ~(302) 58日目⑧ 道の駅 松陰記念館・旅泊地 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


萩を出発し、旅泊地に向かう途中、道の駅に入ると、銅像と


(向かって左から)
  高杉晋作   天保十年(1839)~慶応三年(1867)
 萩城下の菊屋横町に武士の子として生まれました。
19歳の時に、友人の久坂玄瑞のすすめで松下村塾松下村塾に入塾し、久坂と並んで村塾の双璧と称されました。長野の佐久間象山を訪ね学びました。
 身分に関係なく組織された奇兵隊を結成し、四境戦争などで連戦連勝して長州藩の勝利におおいに貢献しました。幕末に大変活躍しましたが、明治維新を見る直前に下関で病死しました。


  吉田松陰   天保元年(1830)~安政六年(1859)
 江戸時代の終り頃、萩の松下村塾で幕末の志士や明治維新に活躍する多くの人材を育てました。萩藩士の二男として、萩の松本村に生まれ、幼くして吉田家の養子となり、山鹿流兵学市販の職を継ぎました。また松陰は生涯にわたって日本中を旅しています。
 世界に目を向けた松陰はアメリカ軍艦で海外渡航しようと計画しましたが失敗しました。その後、安政の大獄によって処刑されました。


  久坂玄瑞   天保十一年(1840)~元治元年(1864)
萩城下の平安古で生まれました。松陰と出会ったのは17歳の頃で、松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と評されました。松陰の妹の文と結婚して松陰の実家・杉家に同居し、松下村塾での松陰の教育事業を助けていました。
 吉田松陰がなくなった後の村塾ではつねに中心的人物でした。京都蛤御門(禁門)の変の戦いで負傷し、25歳の若さで亡くなりました。
-案内板より


     

「松陰記念館」なるものがあったので、入ってみました。



館内には、吉田松陰の生き方や、人形を使った松下村塾の再現・手紙の
レプリカなどを展示されていました。

      
                   萩城の模型


明日の目的地近くの道の駅を探すがイマイチ。困った時の高速道路へ。
 (あとで落ち着いてみると可成り方遠回りをしていました。まっいっか。)



本日の旅泊地・鹿野SAにて車中泊


第58日目終了

本日の走行距離  159km



                                 つづく








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