~西へ~(301) 58日目⑦ 松下村塾・吉田松陰誕生地 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


萩城から松陰神社にやってきました。



誰も居ない萩城とは違い、こちらは観光バスも停まり、人がウジャウジャ。

 松陰神社
御祭神:贈正四位吉田矩方神霊
由緒
吉田矩方は、幕末の萩藩主毛利敬親公の家臣であって、萩の松本村に生れた。松陰又は二十一回猛士と号した。松陰先生は幼時より鋭敏で秀才の誉高く、藩校明倫館で兵学を教えた。主君の面前で講義し、その名教授により賞与を賜わったこともある。成人の後、全国を遊歴して見聞を広めた。やがて、皇室の衰微していることを憂い、皇室を中心に皇国の発展を謀てた。そのため尊王攘夷の運動を展開し、知識を広めるため国禁を冒して外国への渡航を図った。この企ては失敗して投獄され、後ち許されて松下村塾で弟子達を教育した。この塾から、この後明治維新を遂行する多くの志士が輩出した。江戸時代の安政六年(1859)、安政の大獄に連座し、江戸伝馬町の獄で刑死した。松陰先生は、萩藩の維新回天の大業の先駆者であり、明治維新の先覚者であった。明治二十一年(1888)、朝廷から正四位を追贈された。明治四十年(1907)、松陰先生を敬慕する者が神社創建を出願し、同年十月に許可となり、県社に列する。 
-神社庁松陰神社解説より


      

お目当ての「松下村塾」の建物は参道の横にありました。



 国指定史跡  松下村塾
  説明
 吉田松陰は安政4年(1857)実家杉家宅地内にあった小屋を改造して8畳の塾舎とし更にその翌年10畳半を増築した。これが規在松下村塾で、松陰27才の時のことである。ここで松陰が教育した間は1年であり、実家の幽囚室時代を、通算しても2年半に過ぎない。
 初め吉田松陰の叔父玉木文之進がここからほど遠くない自宅で私塾を開き、松下村塾と名付けていた。ついで外叔久保五郎左衛門がその名を継承し、師弟の教育にあたった。安政4年(1857)松陰がこれを継ぎ、幽囚室からここに移り講義を行った。
 この短い期間にこの粗末な教室から若い松下村塾グループが育ち、安政の大獄で刑死した師の志を継いで尊攘討幕運動に挺身し明治維新の原動力となつた志士の主な者は激動期に死んでいったが、生き残つた者は維新政府中枢に立って新しい日本を指導することになった。 
                萩市教育委員会     -案内板より




松下村塾といえば、言わずと知れた幕末期に吉田松陰が主宰した私塾です。
天保13年(1842)に松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが
始まりで、後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継承し、子弟の
教育にあたりました。そして安政4年(1857)、28歳の松陰がこれを継ぎ、
主宰することになりました。



木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、当初からあった8畳の一室と、
後に吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの
部分から成っています。講義室だった8畳の部屋には松陰の石膏像と肖像
画、机が置いてあります。



吉田松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、わずか1年余りの
間でしたが、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、
山田顕義など、明治維新の原動力となり、活躍した多くの逸材を育てました。



当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから「松下村塾」という
名がつけられました。
松陰は「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」と
『松下村塾記』に記し、村名を冠した塾名に誇りと責任を感じ、志ある
人材を育てようとしました。

     




松下村塾をあとにし、続いては高台にある「吉田松陰の生家跡」へ。

      

 吉田松陰先生銅像
 この銅像は、明治維新100周年を記念して1968(昭和43年)に建立されたものである。松陰先生が弟子の金子重輔を従え、下田沖のぺりー艦隊を見つめている姿を彫刻したもので、高さは約8mある。題字は当時の佐藤栄作首相が書き、銅像は萩出身の日展審査員長嶺武四郎が製作している。 -案内板より

      

萩市指定史跡  吉田松陰誕生地  (左)
 ここは吉田松陰の実家、萩藩士杉家(家禄26石)の旧宅地である。この付近は「団子岩」と総称され、萩城下が一望できる風光明媚な所である。
 杉家の建物は、元は萩藩士八谷聴雨の山荘であり「樹々亭」と称していた。松陰は、天保元年(1830)8月4日、杉百合之助の二男としてこの地に生まれ、19歳までの人間としての形成期を過ごした。
 両親や兄弟とともに農耕に従事し、その合間には父から漢籍の素読などを受けた、思い出深い場所である。松陰自身の書き残した書の中にも、「樹々亭」「山屋敷」「山宅」などの表現が見られる。
 旧宅の間取りは玄関(3畳)、表座敷(6畳)、居間(6畳)、隠居部屋(3畳)、納戸(3畳)、台所、それに別棟の納戸と厩という、非常に狭く、簡素な造りであった。
 嘉永6年(1853)に杉家が転居した後、いつしか建物などは失われ、荒れ果てていが、大正11年(1922)に椿東村青年会会長信国顕治が、青年会員に呼びかけて整備した。当時の間取りを示す旧宅の敷石も、後に住んでいた人の記憶によってこの時復元したものある。
 整備にあわせて山県有朋が「吉田松陰先生誕生之地」の石碑の題字を揮毫している。肩書きを門下生のみとしているところに、師に対する謙譲の気持ちが表れている。なお、山県有朋は整備完了前に死去したため、これが絶筆となった。 -案内板より


松蔭誕生地と萩の眺望 (右)
 この地は一名「団子岩」ともいわれ、吉田松陰が生まれ、幼児期を過ごした所です。
 ここから市内を一望すると、この小さな城下町の中から生まれた維新の活力を彷彿とさせてくれます。萩は関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏が、この三角州指月山のふもとに城と町を築いたところで、江戸時代の典型的な城下町の姿を保ち、細工町、侍屋敷、商人町、寺町など、その構造を知るには最も都合のよい町であるといわれています。 -案内板より




 

先ほど訪れた萩城のある指月山と城下が良く見えました。



続いて、「吉田松陰」「高杉晋作」の墓所です。

 

訪れる人が多いんだなぁ。丁寧にも案内図がありました。

    

  吉田松陰
 吉田家第七代大助の養子。
実父杉百合之助の次男松下村塾を主宰し、多くの俊才を育てた。
安政六年(1859)江戸伝馬町の獄にて処刑される。 行年 三十才


 

  高杉晋作
 松下村塾に学び吉田松陰門下の逸材。久坂玄瑞と並ぶ松下村塾の双璧の一人。奇兵隊を創設。慶応三年(1867)没  行年 二十九才

    
 吉田松陰墓所の道路を挟んだ向い側に立つ
    「高杉晋作草庵草庵跡地顕彰碑」



                                 つづく








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