近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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萩城は、三角州の突端に張り出した指月山に築城されたため、三方を海に
囲まれており、海城であるという見方もあります。その山頂の詰丸(要害)と、
山麓に梯郭式(曲輪#縄張と主要な曲輪を参照)に本丸・二の丸・三の丸を配し
3重の堀を巡らした平山城ともいえます。吉田郡山城などの中世山城に見ら
れる"山麓の館と山頂の砦"という形態を近世の最新築城術で再現したような
城で、広島城を失った毛利輝元が背水の陣で築いた城として、輝元の築城
理念が最もよく示されているとされてます。厳密には、山頂の詰丸も本丸と
二の丸で構成されており、山麓の城とは独立したものであるため、平山城で
はなく平城と山城であるとする見解もあります。


詰丸跡(国指定史跡萩城跡の一部)
萩城は、山の名をとって指月城とも呼ばれ、ふもとの平城とあわせ山頂に詰丸を設け、せまいながら本丸・二の丸を置いて陸と海とを監視するため、矢倉数箇所・天水溜二箇所などをもつ望楼であった。
昭和四十一年度に山口県の補助をうけ、市民の憩いの場として整備され、登山道約七百三十メートル、所要時間二十分で詰丸跡に達します。
指月山(国指定天然記念物)
今から約三百年前から、お城山と呼ばれていたこの指月山城は、犯しがたいものとして人手を加えられないままに、樹木は成長し現在ではうっそうと木木は茂り、美しい森林となっています。
シイ・タブノキなどの常緑かつ葉樹が最も多く、落葉樹もまざり、ふもとの海岸には黒松林があって、この附近ではめずらしい原生林であります。
指月山のミカドアゲハ(萩市指定文化財)
ミカドアゲハは南方産の蝶であって指月山では昭和三十二年にはじめて発見されました。
現在わが国における本種分布の北限地であります。
捕らえないように保護しましょう。
萩市教育委員会 -案内板より
では、詰丸(要害)へと上ります。

と、すぐに「重建太祖神廟記の碑」


重建太祖神廟記の碑
この碑は、明和7年(1770)第7代萩藩主毛利重就によって建てられ、萩城鎮護の社として毛利氏の崇敬を受けていた仰徳神社の由来を記したものである。仰徳神社は、もと春日神社の境内に祠があったが、火災に遭って100年ばかり祭祀を廃していたものを宝暦12年(1762)、この石碑の右側の平地に、重就によって社殿が建立され、明和7年(1770)に仰徳大明神の社号を賜った。
例祭は毎年9月末日と10月1日に執行され、身分の上下を問わず士庶の参詣が許され、社前では蓮歌や舞楽が奉納されて、多くの人出で賑わっていた。現在、社殿は志都岐神社の東隣に移されている。 -案内板より


つづら折りの道をえっちらおっちら、


上る事30分弱。


詰丸(要害)に到着です。

詰丸表門(要害門)


詰丸表門(要害門)両側の石垣

萩城要害跡(はぎじょうようがいあと)
ここ、指月山の山頂(標高143m)は、要害または詰丸と呼ばれ、戦時に籠城するための、まさに最後の砦であった。
要害は周囲を石垣と土塀でとり囲み、要所には矢倉を配置していた。
平時には眺望の利く大小様々な矢倉から陸地と海上を監視した。矢倉内には緊急に備え、武器類も配備されていたようである。
矢倉門である要害門矢倉を抜けると、二の丸(東西十九間…37.4m。南北二十間…39.4m)が広がる。建物は現存しないが、二の丸には監視役の執務場所である要害番所と宿所である居小屋(いごや)が存在した。
さらに一段高くなった東側には本丸(東西二十四間…47.3m。南北二十間…39.4m)があった。
本丸には天守が存在したという記録はないが、藩主が要害登山時に儀礼空間や酒肴の場として用いた茶屋が建っていた。二の丸と本丸の間は土塀で仕切られ、両者は棟門で連絡していた。また、本丸の東端には裏門となる埋門があった。なお、鬼門の方角にあたる北国矢倉の石垣は北東隅を欠いた石積みとなっており、興味深い。
この他にも飲料や消火用の貯水施設であった用水や池、石垣石材を調達した石切場などが残っており、要害の機能や築城過程の一端をうかがい知ることができる。

詰丸表門(要害門)枡形

多くの落書きがされている無残な姿の土塀

詰丸表門(要害門)は、櫓門だったと伝わります。この石垣の上に
建っていたのでしょう。

二段上が、詰丸(要害)二の丸跡。

内側から見た詰丸表門(要害門)の枡形
つづく
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