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萩城の本丸は、指月山を背後にした本丸御殿を中心に、南西部に天守を、
南東部と北東部の隅に櫓(着見櫓と井上櫓)を配した曲輪です。
広さは東西約200メートル・南北約145メートルに及びます。

本丸南西の天守台に向かうと、風情のある建物が。

その名と中潜りで茶室であることは想像できますが。


市指定有形文化財(建造物) 花江茶亭(はなのえちゃてい)
花江茶亭は安政の始め(1854)ごろ、13代藩主毛利敬親(たかちか)が三の丸の橋本川沿いにあった花江御殿(はなのえごてん)(川手御殿・常盤江御殿)内に造った茶室である。幕末の多事多難のおり、この茶室で敬親は支藩主や家臣たちと茶事に託して時勢を論じ、国事を画策したといわれる。
維新後、長屋氏に譲渡されたが、明治22年(1889)ごろ品川弥二郎等が主唱してこれを買取り、指月公園内の現在地に移築した。
建物は木造入母屋(いりもや)造り茅葺き(かやぶき)平屋建て、桁行(けたゆき)6.84m、梁間(はりま)3.62m、本床と脇床がついた4畳半の茶室と、3畳の水屋からなっている。
萩市教育委員会 -案内板より

露地(庭)

大層な歴史のある茶室から天守台へ。

天守台


萩城天守閣
萩城は、関ヶ原の役に敗れた毛利輝元が防長二州・三十六万石の居城として、慶長9年(1604年)工を起し同13年(1608年)完工した。桃山初期の形式を示す。白亜五層の天守閣は高さ8間(14.4米)初層は東西11間(19.8米)南北9間(16.2米)、最上層は東西3間半(6.3米)南北3間(5.4米)である。初層は、石垣全面にわたって半間を張り出し傍射装置になっていた。明治7年(1874年)解体まで270年間毛利氏が13代にわたり萩城の象徴として偉容を誇っていた。-案内板より

山口県文書館HPより転載

萩城の天守は、5層5階の複合式望楼型(天守の北側には付櫓を接続した複合式の縄張りと2層2階の入母屋造の基部に3層3階の望楼を載せた構造)で、
外壁は白漆喰の総塗籠、窓は銅板を貼った突き上げ戸を備えます。
明和五年(1768)の修理では赤瓦に葺きかえられたとされます。

天守台(高さ6間・約11m)に上がります。

天守台の上から大手・極楽橋を見る

二の丸との間の内堀の幅は、二十間(約36m)

天守台から見た西二の丸

天候のせいか?誰にも会いません。

本丸西側と二の丸東側を結ぶ土橋

土橋から見た天守台(石垣の裾が可なり広がっている)
つづく
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