近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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萩城は、指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある
山城(詰丸)で構成されています。
かつて本丸に建っていた御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余り
の間、長州藩(萩藩)の拠点でしたが、明治七年(1874)前年に発布された
廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、現在は、指月公園として整備
され、石垣や堀のみが現存しています。
本丸には、「志都岐山神社(しづきやまじんじゃ)」が鎮座。


まずは、参拝いたします。

神橋(万歳橋)は通行止めになってました。


明倫館(めいりんかん) 遺構(いこう) 万歳橋(ばんせいばし)
嘉永2年(1849)江向に新築された明倫館には、多くの藩校と同じように聖廟(せいびょう)の前に水を巡らし、その中央に石橋が架けてあった。泮水(はんすい)は泮池ともいい、中国上代の形式を模倣したもので、諸侯の学校であることの象徴である。泮は半と同じ意味で、聖廟周囲の南半分にしか水がないことを意味している。橋は花崗岩で造られており、長さ4.05m、幅員3.15mの直橋で、橋脚はなく両岸の石垣の橋台に2本のアーチ式橋桁(はしげた)を渡し、その上に10個の短冊石(たんざくいし)を横に並べて造られており、中国風のデザインを施した太鼓橋(たいこばし)である。 -案内板より

万歳橋を回り込み、石段を上がります。

石段の上に拝殿、離れた形で、瑞垣に繋がった幣殿、その中に本殿
となっておりました。

拝殿から眺めた幣殿


志都岐山神社
旧県社。祭神は毛利元就・毛利隆元・毛利輝元・毛利敬親・毛利元徳。明治11年(1878)、萩町及び付近の有志が発起し、広く毛利家にゆかりのあるものの賛同を得て、萩城跡本丸内に山口の豊永(祭神毛利元就)・野田(祭神毛利敬親)両神社の遥拝所を創建した。翌12年、この遥拝所を山口にある両神社の分社とし、指月神社と称した。同15年県社に列せられ、志都岐山神社と改められた。同33年、祭神を元就・隆元・輝元・敬親・元徳の5柱とし、初代から12代まで萩藩主を配祀した。 -案内板より
次は、本丸南西に建つ、天守の跡(天守台)に向かいます。
つづく
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