近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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57日目。

4週間近く滞在した九州を離れ、本州に戻ります。

関門橋
関門海峡の最狭部である下関市壇之浦と北九州市門司区門司(和布刈地区)を結ぶ。1973年(昭和48年)11月14日に開通。橋長1068m、最大支間長712mは、若戸大橋(橋長627m、最大支間長367m)をしのぎ、開通時点では日本および東洋最長の橋。形式は標準的な3径間の吊り橋で、桁下から海面までは61mある。

本州に上陸。長門國総社を目指します。

長府毛利邸(長府惣社町)
長府毛利邸は、長府毛利家十四代当主の毛利元敏公が、東京から帰住し、この地を選んで建てた邸宅です。
明治31年(1898)に起工し、明治36年6月2日に完成した後、大正8年(1919)まで長府毛利家の邸宅として使用されました。
その間、明治35年11月には、明治天皇が熊本で行われた陸軍大演習を御視察の際、当邸を行在所として
使用され、一部の部屋は当時のまま残されていて、往時が偲ばれます。
また津軽家に嫁がれ、常陸宮華子妃殿下の御生母となられた久子様(元敏公のお孫さんにあたる)も、この御屋敷で幼少時代を過ごされています。
邸内にある庭園は、池泉回遊式で、苔・石・池・楓・灯籠等配置の妙は、新緑や紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした日本庭園のたたずまいを感じさせてくれます。
-案内板より


長府毛利邸の横に「総社」の跡地を発見。
総社跡 (長府惣社町)
大化改新(六四五年)により律令制度が全国に施行された時 中央から任地に赴いた国司は管内の官社を巡拝することが一つの義務であった しかし時代が下って平安中期以降になると祭祀やしきたりが怠りがちとなり管内の神社を便宜的に集めて一社を建てて総社とし管内官社の巡拝にかえるようになった 今日国府のおかれた町にいずれも総社の跡をみるのはそのためである 長門国府があった長府でも国衙にほど近いこの位置に長門国の総社が建立されており昭和四十年代までその社の一部を見ることができた このあたりは現在も惣社町と呼ばれているがそれは総社と同意語であり国府時代に総社があった名残である。
平成七年三月三十日 城下町長府まちづくり協議会 長府観光協会
-案内板より
「あった名残である」とは?もうないのか?
一方通行で、狭い道をグルグル。やっと地元の方に教えて頂き到着。

道路わきの駐車場の奥に鎮座しておりました。


忌宮神社摂社 惣社宮・守宮司神社由緒
惣社宮御祭神 大巳貴神(大国主命)・天神地祇
守宮司神社御祭神 応神天皇
例祭日 九月二十五日
惣社宮は、守護館(現毛利邸)の付近に鎮座されていたが、昭和四十年代に一時忌宮神社に合祀され、昭和五十五年に現在地に鎮座された。
かつて国司が、任国の主要神社を巡拝する労を省くため一カ所に勧請したのが「惣社宮」といわれる。
守宮司神社は、忌宮神社御斎祭に特にかかわり深い神社だが、鎮座の時代など不詳である。 -案内板より


惣社宮 守宮司神社
とあらば、忌宮神社へ参拝に。
つづく
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