~西へ~(288) 57日目② 長門国二宮 忌宮神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


忌宮神社は地図にも載っており、すぐに到着。
 次に行く予定だった所のすぐ近く。幸運。

   
  忌宮神社(いみのみや)(長府宮の内町)
 仲哀天皇 神巧皇后 応神天皇を祭神とする式内社(平安初期の律令施行細則の延喜式神名帳に記載されている古社)
 この地は 仲哀天皇が熊襲討伐のため七年間にわたり仮の皇居とされた豊浦宮跡といわれ宮に付属して斎宮を建て神祇を祭られたのが忌宮の起こりと伝えられる
 また、仲哀天皇が崩御されその御遺体をここより南方の土肥山に仮埋葬(殯斂)し神霊を鎮祭し豊浦宮と称した のち聖武天皇の神亀5年筑前国橿日宮から神巧皇后の神霊を勧請して忌宮と称し さらに応神天皇を祀り豊明宮と称した三殿別立の古社であったが中世における火災で豊浦宮、豊明宮が焼失 忌宮に合祀し一殿となったという 幾度の兵乱や火災により社殿の焼失をみたが大内・毛利両氏の崇敬篤くその都度、造営改築が行われた 現在の社殿は明治10年6月に造営されたものを昭和56年に改修したものである。
    平成五年三月    長府観光協会    -案内板より


      

 数方庭の由来と鬼石
第十四代仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが仲哀天皇七年旧暦の七月七日に朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された、賊軍は色を失って退散し皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭(八月七日より十三日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。 -案内板より


 神門(大正十五年奉献)



      

 日本神話に見る、神様のお使いと、忌宮神社の鶏
さて、忌宮神社の境内には多くの鶏が駆け回っております。
神社と動物はとても密接なつながりがあります。一番わかりやすい例としては、御社殿の前にある狛犬や稲荷神社の狐でしょう。忌宮神社の摂社であります「荒熊稲荷神社」にも、狐の像があります。
神社と縁がある動物との繋がりの信仰を「眷属(けんぞく)信仰」と言います。そして、その動物たちは神様のお使い、「神使(しんし)」とも呼びます。
(中略)
皆様がよくご存じの「イノシシ」が伊吹山の神の使いである話は、『古事記』から来ています。
この様に神話の時代から、神様の使いとしての動物たちと私ども人間との繋がりがありました。折角ですので、神の使いとしての「鶏」も見てみましょう。
『伊勢大神宮神異記』によりますと、豊臣秀吉の時代に朝鮮の方々が食用にと、伊勢神宮の鶏を取り寄せたが、返却したそうです。その理由として、食料として それらの鶏を加工しようとした所、鶏に変化が起き、それを神異と驚いて恐れてしまったそうです。伊勢神宮の神使は「鶏」ですね。
この様に、人々に大切にされてきた神社に居る動物たちです。
(後略)  -忌宮神社公式Webより



 若宮社(仁徳天皇)        拝殿             高良社
                                (地主大神・武内宿祢)

     

長門国二ノ宮 旧国幣社  忌宮(いみのみや)神社 由緒
 忌宮神社は、第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇が九州の熊襲を平定のため御西下この地に皇居豊浦宮(とよらのみや)を興して七年間政治(まつりごと)を行われた旧祉で、天皇が筑紫の香椎で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。その後聖武天皇の御代に神功皇后を奉祭して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明(とよあけ)宮と称す三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の際中殿忌宮に合祀し一殿となり、忌宮をもって総称するようになった。忌とは斎(いみ)と同意語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。
現在の社殿は明治十年の造営で、昭和五十六年に改修す。
古来、文武の神として歴朝の尊崇武将の崇敬篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門国二ノ宮として広く親しまれている。
例大祭  十二月十五日
奉射祭  一月十五日
蚕種祭  三月二十八日
春期大祭 五月十五日(近い日曜日)
数方庭祭 八月七日から十三日まで毎夜
秋期大祭 十月十五日(近い日曜日)
御斎神事
 十二月七日より十五日早朝まで斎行される特殊神事で境内周辺に注連縄を張って一般の進入を禁じ、神職のみ参籠して厳格な潔斎を行い、古式による秘祭を奉仕する。
境内社  荒熊稲荷神社  八坂神社     -案内板より


  

 ご祭神
本殿 第一殿:仲哀天皇、第二殿:神功皇后、第三殿:応神天皇


 本殿と高良社


境内社を拝します。   

       
         八坂神社

       
               出雲構えの狛犬(拝殿前)
 八坂神社由緒
 明治末年の神社合祀推進に伴い、長府においても明治三十七年四月より明治四十四年二月にかけて神社合祀が進められ、忌宮神社境内社八坂神社にまとめられた。
本殿・拝殿は、野久留米にあった塩竈神社が移築されたものである。
 七月十四日から十六日にかけて行われる「夏越祭」では、「茅の輪くぐり」が行われ、「人形」を供え大祓詞百巻が毎日奏上され、氏子・崇敬者各位の無病息災が祈念される。又、一月・五月・九月の十八日には「秋葉講社祭」行われ、火難災除の祈願が込められている。
 <合祀神社>
八坂神社 春日神社 日吉神社 三島神社 印内神社 大歳神社二社 
恵比寿神社 人丸神社 貴船神社二社 塩竈神社 河内神社
※八坂神社には、秋葉神社等数社が明治末年を待たずに合祀されていた。
-案内板より



 「合祀神社名と御祭神」の扁額



 荒熊稲荷神社

 由緒
 文化・文政年間、長府藩十一代毛利元義公が江戸参勤交代の帰途、京都の伏見稲荷大社に詣でて御分霊を勧請し、産業の繁栄を祈願した。
 嘉永元年(一八四八)に現在地に遷して社殿を再建、以来広く信仰をあつめ、特に勝ち運・失せもの発見に霊験あらたかとされている。
 十一月三日の例大祭の奉納相撲は「長府の三日相撲」として世に知られ盛大に行われて来ているが、昭和四十九年大相撲の魁傑関が参拝して九州場所で優勝して以来、放駒部屋一行が毎年参拝して賑わいを見せている。
 平成二年十一月、「御大典記念事業」として社殿を改築御造営。無病息災・家運隆昌・商売繁盛を祈念する崇敬者の参拝が絶えない。
御祭神 宇迦之御魂大神
配祀神 厳島社(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命) -案内板より



         
            式内社・国幣小社
            忌宮神社 御朱印

 惣社宮の御朱印はないとの事。
「見つけるのに苦労したでしょう」と労いの言葉を頂きました。
ちょこっと嬉しかった。








                                 つづく








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