~西へ~(285) 56日目② 薦神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


別名大貞八幡宮(おおさだ-)とも称される「薦神社」に到着です。

     

薦神社(こもじんじゃ)は、大分県中津市に所在する八幡宮で、全国八幡宮の
総本宮である宇佐神宮の祖宮といわれております。
(宇佐神宮の祖宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現 金富神社)や御許山の大元神社であるとする説もある。)

         

いずれにせよ、承和年間(834-848)の創建と伝える古社であります。


 表参道の神門(境内側より)


 ちょっと珍しい屋根付きの木橋・呉橋(江戸時代後期造営)左側と
石の太鼓橋(昭和八年架設)右側

   

立派な御神木(大楠)を見て右に折れます。
 大楠
樹齢:約1000年
樹高:36.5m
幹周:13.4m


  
   神門(二重門)国指定重要文化財
裳階付き三間一戸二重門。元和8(1622)年に細川忠興が再建して以来、中津藩主小笠原氏・奥平氏も修復に力を尽くしました。平成の大修理では、建物の解体段階で、多くの墨書銘が発見され、さらに再建時の屋根はこけら葺きであったことが判明、このため桧皮葺きからこけら葺きに復元されました。
神門には三つの大きな特徴があります。第一に、二重門の前後には、庇状の裳階が付設されていることです。第二に、平面の規模に比べ立面は縦長で、側面から見ると幅が狭く、棟高を一層感じさせられます。第三に、木鼻の細部の繰型や絵様が豊かで線も伸びやかで、意匠や造りが共に優れており、工匠の技量の高さがしのばれます。 -薦神社公式Webより



 
社伝によれば、承和年中(834~48)に初めて社殿が造られ、天仁2年(1109)に神宮寺の七堂伽藍が建立されましたが、源平の争乱時の元暦元年(1184)、緒方惟栄によって社殿が破壊されたといわれています。
その後長く記録が途絶えますが室町時代になると、豊前国をも領した周防・長門の守護大内氏によって、応永~永享年間(1418~31)及び天文年間(1532~55)の二度にわたって社殿の再興が行われました。ついで、慶長5年(1600)黒田氏の転封後入部した細川忠興公は宇佐宮とともに薦神社の復興にも力を注ぎ、元和年間(1615~24)に本殿・講演堂(申殿)・回廊・御炊殿・薬師堂・楼門・若宮殿・南門・鳥居などを造営しました。復興された薦神社境内の様子は、その時に描かれた『宇佐宮絵図』にうかがうことができます。細川氏の復興した楼門が現在の神門で、国の重要文化財に指定されています。
明治20年の「薦神社明細図書」には幕末以後造営された社殿の記載があり、若宮社・祇園社・呉橋・馬屋・玉垣・黒男社・井戸館などの建物がみられます。
その後二度にわたる大戦とその後の混乱の中で社殿の老朽化が進んだため、平成7年から神門(重要文化財)の解体修理、9年から拝殿・申殿などの修理を行ってまいりました。
なお、昭和51年三角池と薦神社が県の史跡に、55年には三角池の水生・湿池植物群落が県の天然記念物に指定されています。 -薦神社公式Webより




 ご祭神は、
本殿
:応神天皇(八幡大神)、比咩大神(宗像三女神)、息長帯比売命(神功皇后)
八坂社(祇園社)
:素盞嗚尊(すさのおのみこと)
若宮社
:応神天皇皇子               で、ございます。

         

薦神社は、神殿を外宮、境内の三角池(みすみいけ:御澄池と記すことも)を
内宮とします。

    
  神様の足跡
八幡さまが三歳の童の姿で降臨された時の足跡です。

   

 大分県指定 史跡 三角池(みすみいけ)と薦神社
                                    昭和51年3月30指定
 薦神社は、別名大貞八幡(おおさだはちまん)とも呼ばれ、宇佐八幡宮の元宮(もとみや)でもあると伝えられる。
史跡範囲は、内宮である5ヘクタール余の池と外宮の社殿からなる。池は、三角池(御澄池)とも呼ばれ、池そのものが御神体である。
三角池に自生する「真薦(まこも)」を刈り取って、池の名中の敷島で乾かし、宇佐八幡宮の御神体である「御枕」にしたという。
社殿は、承和(じょうわ)年間(834年~848年)の草創と伝えられるが、三角池の築造はこれより古いといわれる。
薦神社が祀る八幡神は、池の守り神でもあったといわれる。
当時、大陸の技術を持つ渡来人によって、各地の水利不便な台地に多くの溜池が造営されたという。三角池も、こうした溜池の一つであると考えられている。
 三角池は、穏やかに起伏する洪積台地を利用して作られ、北東から南西へ手のひらを置いたような形をしており、手の先にあたる南西側には三つの澤がある。入江状の澤は浅く、ハスが密生し、マコモの群生地となっている。
御神体でもある三角池では、池・植物・魚などが大切に扱われ、それゆえに貴重な水生群落、入江に群生するマコモ群落やハンノキ林などが残っている。
薦神社の周囲は、かつて鬱蒼とした森であった。現在でも、社殿のある一帯は、コジイ=クロキ群集の常緑広葉樹林に覆われ、イチイガシ林、クスノキの巨樹とあわせて境内林をつくっている。
 なお、三角池の植物と植物群落は、大分県指定天然記念物『三角池の水生・湿地群落』に指定(昭和55年4月8日)されている。
       平成7年7月1日     中津市教育委員会 -案内板より


      

石の鳥居の額束に掲げられた扁額には「薦社内宮」と刻まれていました。


 内宮(三角池)




                                 つづく








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