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薬研堀と祇園車の車輪
本丸と二ノ丸を区切るこの堀は「薬研堀」と呼ばれています薬研とは、漢方薬などを粉にひくために使用された道具で、底がV字びなった舟形の器具に薬草を入れ、握り手がついた円盤状の車輪ですりつぶします。この薬研の断面に似て底がV字形になった堀を「薬研堀」といいます。中津城の薬研堀は川とつながっており、潮の満干で水位が上下します。
堀の中にある木製の輪は、中津祇園祭で使われる祇園車の車輪です。祇園祭が終わった後、「車崩し」が行われ、車輪は泥の中に埋められます。これは、車輪の風化と虫食いを防ぐもので、上祇園の車輪はここ中津城の「薬研堀」に一年間保管されます。祭の間近になると泥の中から掘り出す「輪堀り」という作業が行われます。
2014年11月中津市教育委員会 -案内板より


本丸内に入ります。


古地図を見ると本丸は上段と下段に分かれているようで、現在は、
上段に奥平神社と模擬天守になっており、下段には中津神社が鎮座します。



旧中津藩主 奥平家 (左)
奥平家が歴史の表舞台に登場したのは、奥平家初代貞能と貞昌(後の信昌)父子の頃からで、天正3年5月(1575)の史上名高い「長篠の戦」において貞能・貞昌父子が活躍しました。
武田勝頼軍1万5千人によって長篠城が包囲され、長篠城主貞昌は僅か500人で籠城、激しい攻撃に耐え続けました。落城寸前に織田信長・徳川家康連合の援軍が到着、長篠城の西方約3キロの設楽原で、織田・徳川連合と武田軍が激突、武田軍は織田・徳川連合が築いた馬防柵や大量の鉄砲の前に大敗北しました。この長篠城籠城の功で、貞昌には新たな領地が与えられたほか、信長からは信の一字が偏諱され名を信昌と改め、家康の長女亀姫を正室として迎えました。
信昌と亀姫の間には家康にとって孫となる四男一女が生まれ、長男家昌は奥平家を継ぎ、二男から四男は松平の姓を賜りました。四男の松平忠明は大阪城や姫路城の領主を務めています。
奥平家は長篠の戦いの後、新城城(愛知県)、加納城(岐阜県)、宇都宮城(栃木県)、宮津城(京都府)などを経て享保2年(1717年)奥平家第七代昌成が中津10万石の領主として中津城に入りました。第15代昌遭までの155年にわたり中津を治め、明治維新・廃藩置県を迎えました。その間、第9代昌鹿、第11代昌高などは蘭学史上特筆すべき功績をあげています。
当地の奥平神社では、長篠城籠城中に食料がなくなり「たにし」などを食べて戦い続けたことにちなみ、毎年5月21日頃に「たにし祭」を行っています。
現在、中津城天守閣内は資料館として「長篠合戦図」、家康から贈られた「白鳥鞘の槍」や「歴代藩主の甲冑」など、重宝は展示・公開されています。
中津市観光課 中津市歴史民俗資料館 中津の郷土史を語る会
-案内板より
武運と戦勝 奥平神社御由来 (右)
ご神体は、奥平家中興の祖、奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神をお祀り申し上げております。
のちに宇都宮城(栃木)を経て宮津城(京都)から入城した7代目奥平昌成公は中津城入城の翌年享保3年正月(1718年)、城内二の丸にあった観音院を祈祷所と改称し、11代目昌高公が天明7年(1788年)、祈祷所を長福寺と改名いたしました。現在の中津裁判所がその旧敷地であります。
御祭神の貞能・信昌・家昌公三公は永禄3年(1561年)より元亀・天正・文禄を経て慶長19年(1619年)に至る58年間、幾多の戦功をたてられて徳川氏に忠節を尽くしてきました。
特に奥平家2代目の信昌公は関が原の合戦後、初代京都所司代として綱紀を振るい凶賊から庶民を護りました。後世武士(もののふ)の鑑として徳川300年の礎を築き、人々から義勇と武功を称えられました。 -案内板より

拝殿


三所宮 奥平神社
御祭神
神貞能霊神(智勇の神)
信昌霊神(開運の神)
家昌霊神(天徳除災の神)
仙丸君霊神(護国の神)
略記
御祭神は人皇第六十二代村上天皇の皇子 具平親王(村上源氏)の後裔なり、享保二年中津城主奥平昌成公、五穀豊穣、世の泰平を祈念し豊前一円の守護神として奉祀す。大正五年内務省は大分縣々社に列す。
祭典日
元旦祭 一月一日
祈念祭(春祭) 三月二十日
例大祭 五月二十日・二十一日
新嘗祭(秋祭) 十一月二十八日
除夜祭 十二月三十一日

拝殿ない

本殿
中津城天守閣(模擬天守)奥平家歴史資料館
黒田官兵衛孝高(如水)が、1588年に山国川河口の地に築城し、その後、細川家、小笠原家と続き、1717年から奥平家の居城となり、廃藩置県まで統治した。奥平家は産業振興、蘭学振興などを行い、前野良沢や福沢諭吉らを輩出する土壌となった。現在の城は、昭和39年に奥平家が中心となって中津市民の協力のもとに再建したもので、五層の天守閣と二層の櫓からなっている。内部は歴史資料館となっており、徳川家康拝領の白鳥鞘の鑓をはじめ、歴代当主の甲冑や古文書など数多くの奥平家所蔵の品々を展示している。
つづく
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