近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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八幡宮の総(根)本社であられる宇佐神宮です。


神域は非常に広いので、国道沿いの駐車場からせっせと歩きます。


朱の鳥居をくぐると、機関車が置かれています。

宇佐参宮線 26号蒸気機関車(大分県指定有形文化財)
この機関車は明治24年(1891年)にドイツ・ミュンヘン市のクラウス社が製造、明治27年に九州鉄道(株)(国鉄・JRの前身)が購入し活躍していましたが、昭和23年機関車の大型化に圧せれ大分交通(株)に譲渡の後、宇佐参宮線の主役となりました。
宇佐参宮線は、大正5年(1916年)3月開業し、昭和40年8月に廃止されました。
26号機関車は形式10、製造番号2550号、最大長7.509m、高さ3.616m、幅2.546m、運転装備時重量23.36tで、実に71年間にわたり活躍しました。 -案内板より

先に進むと「山頭火の句碑」がありました。
"松から朝日が 赤い大鳥居"
"春霜にあとつけて 詣でる"

山頭火の碑
碑文
自由律俳人・種田山頭火、本名・正一、明治15年(1882)山口県防府市に生まれる。
早稲田大学を病気中退し帰郷、結婚して父と酒造場を開業する。一方、萩原井泉水が創刊した新傾向俳句誌「層雲」に投句し入門、やがて同人・選者として活躍した。
大正5年(1916)に酒造場は失敗、破産する。
酒に浸って市電を止める事故を起こしたのを機に出家。
九州をはじめ東北地方まで漂泊の旅を続けた。
宇佐神宮には、昭和4年(1929)と13年(1938)に訪れており、禅僧でありながらも殊のほか敬虔なおもいで参拝している。
昭和14年(1939)四国霊場巡礼を終えて愛媛県松山市に「一草庵」を結んだが昭和15年(1940)10月11日同庵に没した。
山頭火は、花鳥風詠や季語を約束する5・7・5の定型俳句とは異なり、
「俳句というものは、魂の詩だ。心の現れを外して俳句の本質はない。」
と言い、その人生や俳句においても、より真実なるものを模索し非定型を貫いた。
行乞流転の旅にあって詠んだ数々の日本語独特な口語のリズムを生かした自由律作品は、いまも多くの人の心を捉えている。


山頭火の日記より(昭和十三年) (左)
三月十七日 日本晴 宇佐
宇佐一片の雲影もない快さ、
朝湯、朝酒のうれしさ。
いよいよ出発。
宇平さん、二丘さん、眛々さん、
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
(中略)
途中、二三杯ひっかける。
歩けなくなって宇佐までバス。
M屋という安宿に泊まる。
よい宿であった。深切なのが何よりうれしい。
神宮に参拝して祈願した。
神宮は修理中。
宇佐風景、丘、白壁、そして宇佐飴を売る店、
(後略)
山頭火の書簡より(昭和四年) (右)
十一月二十四日 大分県宇佐にて、松垣昧々へ
急にお寒くなりました。
昨日は、四日市から当地まできました。
神宮参拝、おのずから頭のさがるを覚えました。
続いて大楽寺拝登。
銀杏が美しく立っていたのが眼に残っています。
今日は高田へ出ます。
第5番、第6番をうたなければなりませんから…
(後略)
十一月二十六日 豊後赤根にて荻原井泉水へ
宇佐神宮は、尊い所でありました。おのずから頭が下がりました。
昨夜は山家に泊まりまして、一人でしんみりしました。
今日は、しぐれる岩山を四つ越えました。
両子寺、天念寺、椿堂、どれも岩山の景勝を占めております。
このあたりは、小耶馬渓とでも言いたい山間であります。
(後略)


寄藻川に架かる朱の神橋を渡り、進むと、
大鳥居が見えてきます。


その手前、右手に鎮座します、

黒男神社(武内宿禰 長寿・忠誠の神様):境内社
つづく
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