近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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日本三大水城である中津城に登城いたします。

周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された
梯郭式の平城である中津城。堀には海水が引き込まれているため、水城
(海城)ともいわれます。

まずは、中津川沿いを見てから本丸に向かいました。

唐原山城の石を使った石垣(黒田時代)


本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角
形をなしていた為、扇形に例え「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていました。
櫓の棟数は22基、門は8棟。総構には、6箇所の虎口が開けられていました。


黒田が持ち込んだ古代山城の石 (左)
正面の石垣にはy字型の目地が通ります。
右側(川側)が黒田時代の石垣で、その上に積まれた左側の石垣が細川時代です。
黒田時代の石垣は四角に加工された石が使用されています。
黒田氏が中津城築城をはじめた天正16年(1588)当時は石垣には未加工の自然石を用います。
しかし、ここではほとんどが四角に加工した石で造られています。
これは川上の福岡県上毛町にある古代(7世紀)の遺跡「唐原山城(とうばるやまじろ)」ー国指定史跡、旧:唐原神籠石(とうばるこうごいし)-から持ち出された石で、直方体の一辺が断面L字型に削られているのが特徴です。
川沿いの石垣に多く用いられています。
黒田時代、お城の横の川が山国川(当時:高瀬川)本流で、現在三角州の小祝は福岡県側と地続きでした。
しかし、大洪水がおき、小犬丸と小祝の間が切れ小祝が三角州となると、その後度重なる洪水で中津城横の川は土砂で浅くなり、山国川(中津川の支流となりました。
まだ川底が深かった時代、黒田は川上の遺跡から古代に加工された石を持ちだし、川を下らせ石垣に使用したのでしょう。 -案内板より
黒田本丸の石垣と細川時代の石垣 (右)
右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(よしたか)-如水(じょすい)ー時代の石垣である。
左側の石垣は、細川忠興)ただおき)-三斎(さんさい)ー時代のもので、忠興自慢の石垣である。
両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。
中津城が歴史に登場するのは、天正15年(1587)孝高が豊臣秀吉に豊前(ぶぜん)の六郡を与えられ、山国川(やまくにがわ)の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。
軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(おおえがわ)-のち忠興の築いた金谷堤(かなやづつみ)によってふさがれたー、北に周防灘を控えた要害の地であった。
同時に瀬戸内海に面し、畿内への重要な港でもあった。
孝高は、闇無浜(くらなしはま)から自見(じみ)・大塚(おおつか)一帯を含む大規模な築城に取りかかったが、度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長5年(1600)関ヶ原の戦などの功によって筑前(ちくぜん)五十二万石への加増転封(かぞうてんぽう)し中津を去った。
黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後国の国東(くにさき)・速水(はやみ)二郡の領主として入部した。
忠興は、最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。
慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更し大規模な小倉城築城を始めた。
元和(げんな)元年(1615)一国一城令が出され忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請をいったん中止した。
小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌2年中津城の残置が決まった。
元和6年(1620)家督を細川忠利(ただとし)に譲った忠興は、翌7年中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。
元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二之丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。
中津市教育委員会 中津の郷土史を語る会 -案内板より

本丸上段北面石垣にある継ぎ目。
向かって左が細川氏、右が黒田氏普請の石垣

蘭学の里中津と中津城
中津藩は、前野良沢(まえのりょうたく)から福沢諭吉に至るまで、多くの蘭学者を輩出し、日本の洋学の近代化の為に多大な貢献をした藩である。
中津藩主三代目・奥平昌鹿(おくだいらまさか)(1744年~1780)は、母の骨折を長崎の蘭方医吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)が見事に治療したことから、蘭学に興味を抱いた。
明和7年(1770)、藩医の前野良沢を中津に連れて帰り、長崎に留学させた。
良沢は、藩主の期待に応え、オランダ語で書かれた解剖書「ターヘル・アナトミア」を杉田玄白(すぎたげんぱく)等と翻訳し、蘭学の開祖となった。
その成果は安永3年(1774)、杉田玄白、中川淳庵(なかがわじゅんあん)等により「解体新書」として出版され、近代医学の発展に大きく貢献した。
中津藩主五代目・奥平昌高(まさたか)(1781~1855)は、薩摩藩・島津家からの養子であり、実父島津重豪(しまづしげひで)(1745~1833)とともにシーボルトとの親交を深め、自らもオランダ語を学んだ。
文化7年(1810)に、日本で最初の和蘭辞書「蘭語訳撰(らんごやくせん)」を、文政5年(1822)には、日本で三番目の蘭和辞書「中津バスタード辞書」を出版し、蘭学の普及に努めた。
これらの辞書に関与した蘭学者は、前者は、神谷弘孝(かみやひろよし)、後者は、大江春塘(おおえしゅんとう)(1787~1844)である。
二冊の辞書は併せて「中津辞書」とも称され、日本各地で活用されたのみならず、出島やオランダのライデン大学で日本語を学ぼうとするオランダ人にも、大いに利用された。
文政2年(1819)、昌高は、藩医村上玄水(げんすい)(1781~1843)による九州で史料が残る最初の人体解剖を許可した。
玄水は、解剖の詳細な記録を「解臓記」として残し、生家は、3,000点の医学史料を蔵する「村上医家史料館」として、中津市諸町に保存公開されている。
嘉永2年(1849)、辛島正庵(からしましょうあん)を筆頭とする中津の医師十名は、長崎に赴き、バタビア(現ジャカルタ)由来の痘苗(とうびょう)を入手し、中津に持ち帰って種痘を実施し成功した。
この年は種痘元年とも言われ、日本で最も早い時期の成功であった。
なお、辛島家では、種痘を含めた400点を越す医学史料が発見されている。
種痘の成功により、多くの子供の命が救済された。
この事に感動した住民からのボランティア基金により、文久元年(1861)、勢溜(せいたまる)に「医学館」が設立され、種痘所としても大いに活用された。
明治に入り「医学館」は、奥平家が、年に米二百二十五俵を提供して、西洋医学教育の必要性から「中津医学校」へと発展的に改称された。
明治4年(1871)、中津医学校校長に就任した大江雲澤(うんたく)(1822~1899)は、”医は仁ならざるの術、務めて仁をなさんと欲す”という医訓を示し、外科医としてのみならず、教育者としても優れた業績を残した。
市内鷹匠町(たかしょうまち)にある大江家からは、世界で初めて全身麻酔による手術に成功した、華岡青洲の肖像画や多数の華岡流外科手術図が発見された。
その他に「解体新書」や「重訂解体新書なども発見されている。
当時の中津藩から華岡青熟の大坂分塾に五名の医師が派遣され、学んでいたことが明らかになった。
前野良沢を生んだ蘭学研究の流れが、幕末に至ってもなお続いていたことが伺える。
中津出身の外科医として、陸軍軍医学学校長を務めた田代基徳(もとのり)(1839~1898)がいる。
松本良淳(りょうじゅん)(1832~1907)等と医学界の前身である「医学会社」を起したり、「外科手術」や「医学新聞」を発行する等幅広い活動を行った。
基徳は、大坂にある「適塾」に学んだ。
そこでは、中津から福沢諭吉をはじめ、十一人が学び、幕末の中津藩蘭学に大きな影響を及ぼした。
基徳の養子田代義徳(よしのり)(1864~1938)は、初代東大教授に就任し、整形外科の開祖にふさわしい活躍をした。
さらに、日本の歯科学の開祖小幡英之介(おばたえいのすけ)(1842~1909)や、近代医学史上に残る中津人の活躍した背景には、藩を挙げて蘭学に取り組み、学ばせた藩主のリーダーシップがあったと考えられる。
時代に対して、先見の明があり、人材育成を怠らなかった中津藩の仕上げは、福沢諭吉によって行われた。
諭吉は自ら蘭学を学んだことで、前野良沢達が翻訳を為し遂げた苦労を顕彰する為、杉田玄白が晩年著した「蘭学事始(らんがくことはじめ)」を、明治2年(1869)に復刻させた。
その序文の中で、諭吉はー良沢達パイオニアの苦労は涙無しには語れないーと述べている。
中津城には中津の「蘭学の光芒」を示す資料が数多く展示されている。
中津ロータリークラブ・中津中央ロータリークラブ・中津平成ロータリークラブ
-案内板より


復興櫓と模擬天守
つづく
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