近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
城郭中心部の東側、鴻臚館(こうろかん)跡です。

かつてここは福岡ダイエーホークスなどが本拠地とした平和台野球場が
あった場所で、球場の改修工事中に遺跡が発見されたそうです。

史跡 鴻臚館跡(こうろかんあと)1
鴻臚館跡(こうろかんあと)の発見
近世まで、鴻臚館の故地(こち)は現在の博多駅北方付近とする説が一般的でしたが、大正時代に九州帝国大学医学部教授であった中山平次郎(なかやまへいじろう)が「万葉集(まんようしゅう)」遣新羅使(けんしらぎし)の歌に描写された情景などをヒントに、鴻臚館を現在の位置に推定しました。しかし戦後は、福岡国体の競技場やその後の市民野球場への改修工事などにより破壊され、鴻臚館の遺構(いこう)は消滅したとも考えられていましたが、1987年の平和台(へいわだい)野球場外野席の改修工事に伴う発掘調査により、遺跡(いせき)が良好に残っていることが判明しました。
福岡市による調査
福岡市教育委員会では1987年の発見を契機として、翌年から鴻臚館跡調査研究指導委員会(こうろかんあとちょうさけんきゅうしどういいんかい)の指導助言のもと、全容解明のための発掘調査を行っています。
第I期調査は、現在の「鴻臚館跡展示館」とその周辺を対象に実施し、終了後に仮設備を行い、1995年から一般公開しています。第II期は福岡城(ふくおかじょう)三ノ丸の西側、第III期は第I期調査部分の周辺を対象に調査を実施しました。
1998年には平和台野球場が撤去され、跡地の調査を開始しました。面積が広大なため南北に二分し、南半部(第IV期)を1999〜2005年に、北半部(第V期)を2006年から調査しています。
今後も、鴻臚館の全容解明にとって必要と考えられる地点について調査を行っていく予定です。 -案内板より

史跡 鴻臚館跡(こうろかんあと)2
鴻臚館(こうろかん)の変遷(へんせん)
鴻臚館は堀(ほり)で隔てられた南北二つの客館(きゃくかん)で構成されており、うち北側は文献に残る「鴻臚北館(こうろほっかん)」に相当するとみられます。鴻臚館の造営(ぞうえい)以前は、二本の丘陵(きゅうりょう)が東へ伸び古墳(こふん)が造られていました。これまでの調査により、大きく三時期の建物群の変遷が明らかになりました。
【第I期/7世紀後半】
堀の南側に4棟の堀立柱建物(ほったてばしらたてもの)が直角に配置され、北側に1棟の掘立柱建物とこれを囲む柱列(はしられつ)があります。堀の南と北では建物の向きや配置が異なっており、次の第II期のように規格的ではありません。
【第II期/8世紀前半】
造営に先立ち、堀の一部が埋め立てられ、北斜面には高さ4m以上の土留(どど)めの為の石垣が築かれています。この堀をはさんで、南と北に全く同じ方位・規模の区画が造られています。「布堀(ぬのぼ)り」と呼ばれる工法を用いて柱を立て並べた塀(へい)で、東に門を設けています。また、区画の南西外にはそれぞれトイレを設けているほか、堀の西端には陸橋(りっきょう)を、東側には土橋(どばし)、のちに木橋(きばし)を造って南北の連絡路としています。
【第III期/8世紀後半〜9世紀前半】
礎石(そせき)を用いた大型の建物へと造り変えられています。堀の南側では並行する南北方向の2棟とこれに直交する東西方向の1棟を、北側では東西方向の建物1棟を確認しました。堀は埋められて更に狭くなっています。
【第IV・V期/9世紀後半〜11世紀前半】
建物は発見できませんが、廃棄土坑(はいきどこう)(ゴミ穴)がいくつも掘られており、土坑の出土品から瓦葺(かわらぶ)きの建物が存続していたと推定できます。
【鴻臚館の廃絶】
11世紀中頃以降は、鴻臚館に関する遺構(いこう)や出土品が全く見られなくなり、1047年に「大宋商客宿房(だいそうしょうきゃくしゅくぼう)」放火犯人を捕縛(ほばく)した記録を最後に文献から姿を消す状況によく合致します。 -案内板より


史跡 鴻臚館跡(こうろかんあと)
鴻臚館(筑紫館、つくしのむろつみ)は古代(飛鳥・奈良・平安時代)の迎賓館(げいひんかん)に相当し、日本の3カ所に設けられましたが、遺跡(いせき)の存在が確認されたのは、この筑紫の鴻臚館のみです。
福岡市教育委員会では、1999(平成11)年から平和台野球場(へいわだいやきゅうじょう)跡地で鴻臚館跡の発掘調査を続けており、これまでに鴻臚館が周囲より4mほど高い台地の上に造られていたこと、中央の堀(ほり)をはさんで南北に二つの建物があり、何度か建て替えられていたこと、南北を行き来するための橋が架けられていたことなどを確認しました。
野球場跡の調査終了後に全体的な整備を行う予定ですが、すでに調査が終了した南半部分について一部整備を行い公開するものです。奈良時代前半頃の南北二つの建物を囲む塀(へい)跡、塀の南西外のトイレ跡、堀、橋(土橋)などを、それぞれの場所に地表表示しており、遺構(いこう)はその地下に保存されています。実物大のスケールから鴻臚館の建物の大きさを実感していただければ幸いです。 -案内板より

鴻臚館の解明
中山平次郎博士は次の4つの論点から鴻臚館が福岡城内にあったと考えた。
1.736(天平8)年に新羅へ派遣された人々が詠った和歌からみて、筑紫館は志賀島と荒津浜を同時に見渡せ、蝉時雨や荒津の波音が聞こえる小高い場所にあった。
2.869(貞観11)年の新羅海賊船博多湾侵入事件後、鴻臚館に付設された「博多警固所」は、今の中央区警固に近い。
3.11世紀はじめの刀伊入冠事件の記事からみて、警固所が福岡城方面の小高い場所にあった。
4.福岡城内で、大量の古代の瓦、青磁を発見し、ここに瓦葺きの壮大な建物があった。
京都(平安京)、大阪(難波)、福岡(筑紫)の3カ所の鴻臚館のうち筑紫の鴻臚館の場所については、江戸時代以来、博多官内町(今の中呉服町周辺)説が有力であったが、
博士の福岡城内説によって、みなおされることとなり、大きな反響を得た。
1926(大正15)年のことである。
その後、この鴻臚館福岡城内説は1987(昭和62)年末の調査によってほぼ確定した。 -案内板より

鴻臚館(こうろかん)の役割
鴻臚館は、外国からの賓客(ひんきゃく)をもてなし、滞在させるために平安京(へいあんきょう)・難波(なにわ)と筑紫(つくし)の3カ所に設けられた施設で、筑紫の鴻臚館は古くは筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれました。
奈良(なら)時代までは外交専用の施設で、中国(唐(とう))や朝鮮(新羅(しらぎ))からの使節は、来日するとまずここに収容され、朝廷の許可を得ると京へ向かい、帰国の際にも筑紫から船出しました。我が国の遣唐使(けんとうし)や遣新羅使(けんしらぎし)、留学生などもここから船出するなど、筑紫の鴻臚館は外国への直接の窓口としての役割を担(にな)っていました。
平安(へいあん)時代になると、やがて外交使節の来日が途絶えて遣唐使も廃止され、かわって唐や新羅の商人の来航が増加します。商人らは朝廷の許可を得て交易(こうえき)を行い、鴻臚館は外交の場から交易の場へと変容していきました。
-案内板より

礎石建物 平安時代
礎石建物は、大きな石を地面に据え、その上に柱を建てたものである。屋根は瓦で葺いていた。この建物は、東西に廂を持つ大型の建物で、長さ(桁行)18m以上、巾(梁行)12mを測る。 -案内板より

鴻臚館
鴻臚館には、外国の使節を歓迎したり、宿泊する建物などのほかに、役人や警備する人たちの建物、食事を作る建物や倉庫など多くの建物があったと考えられる。復元建物は、宿房と推定される建物の一部分である。 -案内板より

大宰府と鴻臚館
「遠の朝廷」大宰府は8世紀の初め、九州(西海道)の支配と中国や朝鮮との対外交渉の窓口として、また西辺の防備の要として置かれた。その組織は中央の律令官制の縮小版である。官人たちは大宰帥を初めとして2000人ほどを数え、「人々の多さは天下一の都会」であるといわれた。官人たちの勤務した役所には、府、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、蕃客所(鴻臚館)、駅館のほか、兵馬所、主厨司、主船司、警固所、大野城司、公文所、政所などが知られている。
都と地方は国道(官道)によって結ばれていた。約16km(4里)ごとに駅家が置かれ、中央と地方の連絡、海外使節の移動や、税(調 庸)の輸送にあてられた。最近の発掘によると大宰府と鴻臚館は直線的な国道(官道)で結ばれていた可能性が高い。
-案内板より

交易を物語るもの
鴻臚館には、新羅、唐や宋の商人などによって、薬品、香料、毛皮、綿、綾、装飾品、仏典、絵画、典籍、器物などの多種多様な文物がもたらされた。これらは非常に貴重な唐物としこ当時の人々の憧れのまとであった。鴻臚館跡からは、これらのうち、中国各地でつくられた大量の陶磁器が遺物として出土している。現在の河北省、浙江省、湖南省、福建省、江西省など広い地域から集められ、中には窯から取り出したまま荷造りしたことを物語るものもある。 -案内板より
陶磁の道
中国の陶磁器が運ばれたルートは海と陸がある。陸路はいわゆるシルクロードである。内蒙古、中央アジア、西アジアへとラクダを使って運ばれた。一方、海路も早くからひらかれ、沿岸に沿って東面アジア、インド、パキスタン、シリア、トルコへと続く、いわゆる”セラミックロード(陶磁の道)”で海のシルクロードと呼ばれている。これらの海のシルクロードの港湾遺跡からは古代、中世の中国陶磁が出土している。
鴻臚館での貿易を担ったのは、当初新羅の商人で、後には中国の明州(寧波)の商人たちであった。
鴻臚館跡出土の越州窯青磁花文椀は、遠くエジプトのフスタート遺跡からも出土しており、鴻臚館と世界は〝セラミックロード〝で結ばれていたのである。 -案内板より

中山平次郎博士とその業績
中山平次郎博士は九州帝国大学医学部教授として優秀な医学者を育てるかたわら、考古学にも深い関心を寄せられ、大正から昭和初期に、九州における考古学の先駆者として活躍、わが国の考古学史上に大きな足跡を残された。
金印「漢委奴国王」の出土地比定、今山遺跡の石斧製作の分析、青銅器の研究などは、北部九州の弥生文化を明らかにする上で、たいへん重要な成果である。さらに考古学的研究を適して大宰府鴻臚館を解明し、中世博多を現代によみがえらせ、元冠防塁の調査と保存に力を尽くされた博士の業績は、本市の文化財保護、都市づくりの理念など多くの面に生かされている。
中山平次郎博士年譜
明治4年(1871) 京都市上京区に生まれる。
明治29年(1896) 東京帝国大学医学部に入学。
明治36年(1903) 医学研究のため、ドイツ・オーストリアへ留学。
明治39年(1906) 京都帝国大学福岡医科大学(現在の九州大学医学計)の教授となる。
昭和4年(1929)福岡県史蹟名勝天然記念物調査委員となる。
昭和25年(1950)西日本文化賞を受貧。
昭和31年(1956)逝去。(亨年85歳) -案内板より
無料で入れる展示館もあり、職員の方も実に親切で良き所でした。
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つづく
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