~西へ~(265) 54日目③ 日本100名城 福岡城Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


福岡城は、梯郭式の平山城で、本丸の南西に南丸(南二の丸)、北東隅に
同じような規模で東二の丸、この2つを結ぶようにして囲む二の丸、その
二の丸の西から北東に三の丸が囲む配置でした。建物は47基の櫓や10棟の
城門を配し、縄張りの範囲は約24万平方メートルにおよぶ大きな城です。


 表御門跡



本丸に上がってきました。

   

  本丸(表御門跡・祈念櫓)
 二の丸から表御門跡を抜けると、いよいよ福岡城の中枢である本丸となります。表御門は大正7年(1918年)に、黒田家の菩提寺である崇福寺(博多区千代)に移築され、現在まで同寺の山門として使用されています。
 また、本丸の東北方向(鬼門)の角には、祈念櫓があります。これは鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、棟札によると万延元年(1860年)3月に起工、同年10月に竣工したものです。
 この櫓は、大正7年(1918年)に、陸軍省から払下げられ、北九州市八幡東区の大正寺境内に移築、観音堂として使用されました。そして昭和58年(1983年)、同寺より福岡城の旧位置に戻された経緯があります。大正初期の撮影と推定される写真の祈念櫓をみると、下見板張り、白漆喰の壁、軒先を方杖と軒桁で支える二層の櫓となっており、復元された現在の祈念櫓とは著しく外観が異なっており、別の櫓かと思われるほどですが、福岡城から大正寺に移築された際に大幅な改変を受けたと考えられています。1、2階の窓格子は白漆喰塗り仕上げで当時の様子をとどめています。
 福岡城の特徴として、47ともいわれる多数の櫓があったことが挙げられますが、現存しているのは本櫓のほか、国指定史跡の多聞櫓や解体保存中の潮見櫓など数えるほどとなっています。 -案内板より


  福岡県指定文化財 福岡城祈念櫓
 福岡城は慶長五年(一六〇〇)筑前に入国した黒田長政が翌六年から七年の歳月をかけて築城したものです。城は東西に長い梯郭式の平山城で、本丸・二の丸・三の丸に分かれています。その面積は四十八万平方メートルにおよび、昭和三十二年に国史跡に指定されています。
 この祈念櫓は本丸の北東隅に鬼門封じのために建立された二層の櫓で、棟札によって現在の建物は、万延元年(一八六〇)年三月に起工し、同年十月に竣工したことが判明しています。
 その後、大正七年(一九一八)には本市内にある黒田家菩提寺の崇福寺が陸軍省から払い下げをうけ、その末寺である北九州市八幡東区の大正寺の境内に観音堂として移築されました。その際の棟札によると大正九年に竣工しています。さらに昭和五十八年(一九八三)から翌年にかけて再び福岡城の現在の位置に再移築がなされました。また、その間の昭和三十二年八月には「旧福岡城祈念櫓」として福岡県の有形文化財(建造物)に指定されています。
 大正初期の移築前に撮影されたと推定される古写真と現在の建物を比較すると外観や規模が異なっており、大正寺への移築の際に大幅な改変を受けたものと推測されます。旧状の櫓の壁は白漆喰で、二層目の窓は花頭窓であったことが写真から判明しています。
     二〇〇四年三月 福岡市教育委員会  -案内板より




福岡城の本丸は25,500m2の広さを誇り、かつては初代藩主・黒田長政が
居住して執務にあたった本丸御殿や、石垣も含めると高さ13mにもなった
武具櫓などがあったとされます。



 天守の存否
大天守台は東西約25メートル、南北約22メートルの大きさで、東側に中天守台と小天守台が連なる。天守台周辺の発掘調査では瓦片の出土があり、天守台に建物があったことは確実視されているが、天守が存在したという事実は確認されていない。
従来の通説では、正保3年(1646年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれていないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされている。
近年になって、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた元和6年(1620年)3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と天守の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、天守があった可能性が示されている。天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっている。
-日本100名城 公式ガイドブックより



 小天守台

   
    小天守石段


 小天守台の上から見た本丸(左手上にある「柵」が天守台)

    
  本丸                   鉄御門(くろがねごもん)跡
 本丸は、藩主が政務(せいむ)を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿(ほんまるごてん)」があり、天守台へと続く福岡城の中心部です。
 天守台への入口となる「鉄御門跡(くろがねごもんあと)」が残っていますが、要衝(ようしょう)の門にふさわしく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。高く積まれた石垣の上に櫓(やぐら)や堀(へい)が張り巡らされ、上から攻撃できるようになっていました。この鉄御門跡の先には埋門跡(うめもんあと)があり、やはり狭い門となっています。
 定説では福岡城の天守閣がもともと建設されなかったとされていますが、近年では天守閣の存在をうかがわせる文章が発見され、「はじめは天守閣が建設されたが、後年取り壊されたのではないか」という説も説得力を増しており、「幻の福岡城天守閣」をめぐる議論が続けられています。 -案内板より




天守台(曲輪)に上がるための鉄階段が設けられている。
往時は櫓などが建ち、その中を進んだのだろう。


 埋門跡


 天守台


 天守礎石
東西約25m、南北約22mの敷地内に約40個におよぶ天守の礎石が残っています。


 大天守台からの眺め

   
  福岡城天守台跡(ふくおかじょうてんしゅだいあと)
 歴代の福岡藩主も眺めたであろう天守台跡(てんしゅだいあと)からは、福岡市内360度全方向のパノラマを楽しめます。江戸時代なら福岡城下を一望できたことでしょう。そして、もしも天守閣が存在していたとしたら、そこからはより一層爽快(そうかい)な眺めが得られたはず。この天守閣の有無については議論されていますが、仮に存在したとすると、天守台の礎石(そせき)や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたと推定され、東側に中天守、小天守が立ち並ぶ52万石の大藩にふさわしい偉容(いよう)を誇ったに違いありません。 -案内板より

       


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                                 つづく









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