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福岡藩初代藩主 黒田長政の福岡城に登城します。


福岡城跡
慶長12年(1607)黒田長政が七年の歳月をかけてこの地に築城しました。
この地は当時、福崎と呼ばれていましたが、黒田家ゆかりの地、備前(岡山県)邑久郡(おくぐん)福岡にちなんで福岡と改められました。城の様式は平山城で規模は24万坪(約80ヘクタール)、博多湾側からの景観から舞鶴城とも呼ばれました。
現在は石垣・多聞櫓・潮見櫓・祈念櫓などが残り、栄華の昔を伝えています
史跡種別:国指定史跡「福岡城跡」
史跡面積:史跡指定面積48.2ヘクタール(昭和32年8月29決定)
その他の:重要文化財 多聞櫓
指定文化財 県指定文化財 潮見櫓・祈念櫓・大手門・母里太兵衛邸長屋門
市指定文化財 名島門 -案内板より

(伝)潮見櫓

(県指定文化財 昭和27年3月29日指定)
福岡城に50近くあった櫓の一つです。大正初期に浜の町の黒田別邸に移築され、昭和31年(1956)に再移築されました。
潮見櫓の本来の位置は、現在の位置ではなく三の丸北西角であり、また、この建物は平成3年の調査の結果、潮見櫓ではなく、城内の別の櫓であると考えられています。
平成20年11月 福岡市教育委員会 -案内板より


立派な石垣を見ながらの登城です。

東御門跡
東御門は大手門から三の丸を抜けて二の丸に入る際に使われた主要な門で、往時は、この門の東側石垣上には2重の炭櫓(高矢倉)が、西側には革櫓と呼ばれる櫓が設けられていました。
門をぬけると二の丸(東二の丸)で、二の丸御殿が建っていました。

福岡城は初代福岡藩主・黒田長政(くろだながまさ)が、慶長(けいちょう)6年(1601年)から7年がかりで築城しました。ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内城は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、潮見櫓(しおみやぐら)、多聞櫓(たもんやぐら)、花見櫓(はなみやぐら)をはじめとする47もの櫓がありました。
城内の建物や石垣は、火災による焼失や自然災害による崩壊などによってしばしば修復が行われたほか、江戸期を通じて若干の改変がありましたが、築城当初の縄張に大きな変化はなかったようで、内城部分で41万m2(東京ドーム9個分)の広さを誇った雄大さを今も感じることができます。城下の武家屋敷まで含めると246万m2(東京ドーム53個分)もの広さを持つ、日本有数の広大な城です。
現在地の「東御門跡」は、「三の丸」と「二の丸」をつなぐ門で、ここから二の丸、本丸、天守台へと城内を登っていくメインルートでした。三の丸には、藩主を支える家老職の屋敷群がありました。 -案内板より

二の丸(東二の丸)跡

大手道を進むと、

扇坂御門跡
扇坂御門は東二の丸から二の丸への入口です。
二の丸の北東にある門で、東西方向と南北方向のふたつの方向に階段がのびています。

扇坂御門は「お綱門」とも呼ばれ、門に手を触れると熱病に冒されたり、
夜中にうなされたりすると長く恐れられていたそうです。
案内板にもその話について紹介されています。


二の丸(二の丸御殿・水の手・お綱門)
福岡城の二の丸は、大きく「二の丸」、「東二の丸」、「南二の丸」に分かれ現在地は東二の丸にあたります。現在は運動場(ラグビー場)になっている北側まで石垣があって、「二の丸御殿」が建っていたようです。その南側は貯水池となる「水の手」でした。
「東二の丸」から扇坂(おおぎさか)を抜けると、現在は梅の名所として知られる「二の丸」へと続きます。この扇坂の近辺に「お綱門(つなもん)」と呼ばれる門がありました(扇坂御門か東御門か異なる門であるかは諸説あります)。柱に触れただけで熱病に冒(おか)されたり、夜中にうなされたりするといわれたその門には、恐ろしくも哀(あわ)れな話が語り伝えられています。
寛永(かんえい)の頃、福岡藩二代藩主・黒田忠之(くろだただゆき)は参勤交代(さんきんこうたい)の帰りに大阪で遊び、采女(うねめ)という芸者を連れ帰りました。しかし、家老にいさめられて、お側役(そばやく)の浅野四郎左衛門(あさのしろうざえもん)に預けることに。
浅野にはお綱という妻と幼い2人の子どもがいましたが、采女に心を奪われた浅野は、妻子を顧(かえり)みなくなってしまいました。簀子町(すのこまち)の本宅に采女を住まわせ、お綱と子どもたちを箱崎(はこざき)の下屋敷に別居させて、はじめはしていた月々の仕送りもだんだんとしなくなりました。貧しい生活にやきもきしたお綱は「せめて娘の4歳のひな祭りには何か支度(したく)を」と本宅に下男を送ります。ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い返され、下男はお綱に申し訳ないと思い、箱崎松原で自害しました。
これを知って、お綱は狂乱します。2人の愛児を刺し殺し、なぎなたを携(たずさ)え浅野家に走りますが、夫は登城していて留守。逆に、屋敷にいた浪人の明石彦五郎(あかしひこごろう)に切りつけられてしまいました。それでもせめて一太刀と、お綱は髪を振り乱し、血に染まった体をなぎなたで支えながら、夫のいるお城へ。しかし、城門にたどり着くと同時に、門に手をかけたまま息絶えたといいます。 -案内板より

二の丸跡
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つづく
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