近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
大刀洗平和記念館のある太刀洗駅にやってきました。

甘木線太刀洗駅(T-33ジェット練習機)
記念館が、まだ開いてないので周辺の遺構を見て回ります。


西日本航空発祥之地(左)
大刀洗会名誉会長 立山武雄 謹書
碑文
此地は南朝の忠臣菊池武光公一族の古戦跡で大刀洗と称する. 大刀洗飛行隊は大正8年所沢より移駐, 飛行第4大隊が誕生. 後年戦斗, 偵察隊が編成され, 飛行第4連隊と改称, 大正2年飛行第6連隊を編成, 韓国平壤へ移駐大正13年飛行第8連隊を編成し, 台湾屏東へ移駐, 昭和3年中国済南事変に出動, 昭和5年秩父宮殿下を奉迎昭和6年閑院宮殿下を奉迎, 同年満州, 上海事変に出動, 昭和12年支那事変勃発, 総動員令下令, 飛行第8大隊(戦斗)独立飛行第4・6中隊(偵察)第2飛行場紐帯を編成地, 北支天津に出動, 昭和14年飛行第4戦隊と改称, 本県菊津へ移動, 後山口県小月へ移駐, 外地出動部隊も飛行第77戦隊, 飛行第45戦隊と改称. 昭和16年大東亜戦に突入し, 小月第4戦隊は, 西日本地域の防空に, 外地出動部隊は南方全域に勇戦した. 大刀洗陸軍航空廠は昭和14年創設, 西日本各地に支廠を設置し軍官民一致協力して, 飛行機の補修整備に活躍した大刀洗陸軍飛行学校は昭和15年熊谷陸軍飛行学校より分離創設陸軍少年, 飛行兵, 特別幹部候補生の操縦教育訓練を行い, 戦列参加の操縦者養成にあたった, 第5航空教育隊は昭和13年創設, 航空兵初期教育を行い, 戦隊配置のため強兵訓練にあたった. 斯くの如く伝統と光輝ある大刀洗飛行隊も, 昭和20年終結幾星霜を経るに至り, 基地発足以来死生を共にした幾多軍官民の栄誉と鎮魂をねがい国家の恒久平和を祈念するため有志相寄り茲に記念碑を建立する. 以上
昭和61年9月7日 建立委員 -氏名略-
慰霊碑(時計台跡)(右)

時計台跡
この白い慰霊碑は、もともと飛行第四連(戦)隊(昭和15年から飛行学校)の本部庁舎前庭に時計塔として設置されていたもので、当時から多くの隊員たちに親しまれ、この前で記念撮影なども多く行われていました。
戦後、長く放置されていたものを「大刀飛会」によって慰霊碑に改修、追悼シンボルとして現在に至っています。 -案内板より


慰霊碑(時計台跡)


飛行第四連隊(飛行学校)正門
大正8年(1919年)当初は大刀洗飛行場にて開隊した「飛行第四連(戦)隊」の正門として長く使用されました。
飛行第四連隊が中国大陸や南方への出撃をする時は全てこの門をくぐり、また帰還しました。しかし、連隊が先の大戦を控え、熊本県菊池へ移動した後の昭和15年(1940年)秋からその跡に開校した大刀洗陸軍飛行学校・本校の正門として使われました。もともとは原地蔵公民館北側の交差点に設置されたものです。 -案内板より

憲兵分遣隊舎の煉瓦塀
大正8年(1919年)、大刀洗飛行場が10月に開隊したのとほぼ同じ12月に、久留米憲兵隊大刀洗分遣隊として発足しました。軍隊の警察官としての立場で、多いときは10人ぐらいの隊員がここ大刀洗飛行場に関連する部隊や周辺の治安を担当していました。
例えば、訓練中の飛行機が墜落した時などいち早く駆け付け、隊員の救助や周辺の警備にあたったりしました。今でも煉瓦塀敷地内に、隊長官舎や厩舎跡が残っています。 -案内板より


第五航空教育隊正門
昭和14年(1939年)開隊した航空技術兵学校「第五航空教育隊正門」の正門です。
別名西部第百部隊と言われ、最大時には6000人の航空技術兵が在籍していました。この部隊では教科科目として、飛行機機体・機関発動機・板金・精密機械・銃砲火器・通信機材・自動車・無線・旋盤・鋳造・各燃料・落下傘など航空機にかかわる全てを教わっていました。他には、飛行場大隊などの編成もここで行われていました。
元々は国道500号線沿いの山隈交差点に立っていましたが、平成22年1月に当館に移設しました。
-案内板より
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つづく
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