近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
お腹もいっぱいで、訪れた先は「吉野ヶ里遺跡」です。




吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、吉野ヶ里丘陵にある遺跡で、およそ50
ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡です。

城址南側から見学をはじめました。
逆茂木・乱杭

先を尖らせた杭や鋭い枝の付いた木を斜めにたくさん立てて、敵の侵入を防ぐバリケードの役割をはたしていたと考えられています。吉野ヶ里では東の正門の他にも、一番重要な区域に近い門の左右などにこうした設備が見つかっています。
吉野ヶ里遺跡では環壕集落東方の丘陵縁辺部の壕の内側に多くの柱穴が検出されました。のり面に存在する柱穴は外に向かって斜めに穿たれたものが多く、敵の侵入を防ぐための乱杭や逆茂木の遺構と考えられ、復元整備がなされています。
-吉野ヶ里遺跡公式Webより

門と鳥形
弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。
鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。
当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。
穀霊信仰と鳥に対する崇拝
穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。
それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。
鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。
鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。
天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。 -吉野ヶ里遺跡公式Webより


吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構です。
弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた
総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタール。
壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ
柵が施されていました。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に
複数置かれていました。

吉野ヶ里遺跡展示室

展示室では、墳丘墓から見つかった大形の特別な「かめ棺」と、一般用の
「かめ棺」が並んでおり、その大形の棺の中から出土した ガラス製の管玉
・ 把頭飾付有柄細形銅剣 や、吉野ケ里から出土した土器・南海製の腕輪・
最古の頭髪・絹製品等が展示されていました。




吉野ヶ里遺跡展示室から「南のムラ ~一般の人々の居住地~」へ。

弥生時代の吉野ヶ里集落の一般の人々が住んでいた地域と考えられています。
北内郭や南内郭と違い、この区域を囲むような壕などの特別な施設がないこと、竪穴住居3~4棟に対し共同の高床倉庫1棟が付くという、日本全国で見つかっている一般的な集落のあり方と良く似ていること、北が上位で南が下位という古代中国の考え方に影響を受けて作られていると見られる吉野ヶ里集落全体の中で一番南に位置していること、などがこうした考え方の基になっています。
-吉野ヶ里遺跡公式Webより


南内郭の南側の「守り」は兵士がおり、監視してます。
門は、正門(櫓門)と脇門がありました。

南内郭 ~王や支配者層が住んでいた場所~
吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時としては極めて貴重な一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見つかっていることなどから、このように考えられます。 -吉野ヶ里遺跡公式Webより


南内郭の居住者達の性格
南内郭の居住者達は祭司者的性格を持ち、かつ政治・行政を司った者たちであったと想定されます。南内郭の近辺からは青銅器鋳型が発見されており、青銅器や玉などの祭具の制作や調達を担っていた可能性が考えられます。また、最高政治権者(王)は祭司者の統括者としての役割も担っていたと考えられます。
-吉野ヶ里遺跡公式Webより


南内郭には4棟の大きな高床建物があります。
これらは環壕の張り出した部分に対応するように建てられており、兵士が南内郭への侵入者を厳重に見張っていたと考えられています。 -吉野ヶ里遺跡公式Webより

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つづく
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