近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
好きな在来馬を見て、次なる目的地へ。

国道を離れ、県道を進むと大きな鳥居。

「和多都美神社」に到着です。

当社は、上縣郡の式内社・和多都美神社の論社ですが、
上縣郡の式内社・和多都美御子神社の論社でもあります。
さらに、上縣郡の式内社・大嶋神社の論社でもあり、
下縣郡の式内社・和多都美神社とする説もあります。

当社正面の5基の鳥居のうち2基は、海中に建っております。


そして、参道の社殿に向かって左側の小さな入江には三柱鳥居が立てられ、


磯良恵比寿
背面に鱗上の亀裂が見られるこの岩は、今もなお神聖な霊場として祭られている。これを磯良の墓とした伝説があるが、これは社殿が営まれる以前の古い祭祀における霊産かそれとも御神体石だったのかと思われる。 -案内板より



玉砂利が美しい境内


名神大社 和多都美神社
御祭神
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
御由緒
当社の所在地表示は、現在「下県郡」であるが、以前は「上県郡」であった。平安時代の律令細則である『延喜式』の「神名帳」の中に「対馬国上県郡和多津美神社(名神大)」とあるのは当社である。貞観元年(859)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、また、『三代実録』によれば、永徳元年(1381)に、更に従一位を叙せられ、往古より島内は言うに及ばずわが国の名神大社の一つに数えられた。
縁起を辿れば、神代の昔、海神である豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)が当地に宮殿を造り、宮を「海宮(わたつみのみや)」と名付け、この地を「夫姫(おとひめ)」と名付けた。その宮殿の大きさは、高さ一町五反余り、広さ八町四方もあったという。そして神々しく神奈備(かんなび)「夫姫山(おとひめざん)」のさざ波よせるこの霊地に彦火火出見尊と豊玉姫命の御夫婦の神を奉斎したと伝えている。
豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊(ほだかみのみこと)、二女神は豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火火出見尊は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること三年、そして豊玉姫を娶り妻とした。この海幸彦・山幸彦の伝説は当地から生まれたものである。
満潮の時は、社殿の近くまで海水が満ち、その様は龍宮を連想させ、海神にまつわる玉の井伝説の御遺跡や満珠瀬、干珠瀬、磯良恵比寿の磐座など旧跡も多く、また本殿の後方に2つの岩がある。これを夫婦岩と称し、この手前の壇が、豊玉姫命の墳墓(御陵)である。
また、西手の山下に、石があり、それが豊玉彦尊の墳墓(御陵)である。このように、当社は古い歴史と由緒を持ち、時の国主や藩主の崇敬も篤く、たびたびの奉幣やそれに広大な社領の寄進があった。現在でも対馬島民の参拝は勿論のこと全国各地からの参拝が多い。 -案内板より


随垣前で邪鬼の進入を防ぐ狛犬

拝殿ない

本殿(神明造)

本殿脇の摂社

三本柱の鳥居と豊玉彦命の墳墓

境内の土俵と海に続く鳥居


和多都美神社 御朱印
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つづく
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