~西へ~(297) 48日目⑤ 壱岐国一宮 興神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


総社神社にたどり着けないので、管理社でもある「壱岐國一宮 興神社」に
参拝し、再度場所を詳しく聞こうと考え、向かいました。

       
                             (クリックで拡大)

 興神社 由緒沿革
(主祭神)
足仲彦命 (仲哀天皇)、息長足姫命 (神功皇后)
(相殿)
應神天皇(誉田別天皇)仁徳天皇(大鷦鷯天皇)、天手力男命、
八意思兼神 、住吉大神
例祭日 四月十三日 神幸式大神楽奉奏
由緒沿革
一、当社は延喜式第十巻神明帳書載の壱岐嶋石田郡興神社である。社記に言う。往古壱岐伊宅郷国名村(湯岳村)国の一宮国分社で又官庫の鑰政所の印を納めていたので印鑰大明神と称したとある
一、明神記には興神社こう村以前は印鑰大明神式内社とある。
一、神社帳には湯岳村久保頭興神社一宮とあり式内二十四座の内宝殿拝殿あり神主吉野数之進とある
一、嵯峨天皇弘仁二年十月(千二百年前)朔日御鎮座で文徳天皇仁寿元年(千百四十年前)正六位上に叙せられ以後十回にわたり各一階づつ神階を進められ給う
一、永禄九年(四百四十年前)宝殿再建
  松浦肥前守源隆信公の棟札あり
一、同年 十三年 拝殿再建松浦肥前守源鎮信公
一、慶安二年(三百四十年前)国主松浦肥前守鎮信公木鏡及石額奉納せらる
一、社記には例祭日の前夜大神楽翌例祭日には国主名代兵具や幣帛を献上するとあり又女池の行宮に渡御ありと記されている
一、壱岐七社の一つで明治九年十二月四日村社に列せらる
一、明治四十年神饌幣帛料供進神社に指定せらる  
         (平成二年 御大典記念事業) -案内板より


      

付近にはかつて壱岐国府があったとされ、社名の「興」は「国府」の意味と
される。国府の倉の鍵である「印鑰(いんにゃく)」を保管していたことから、
近世には「印鑰神社」とも呼ばれていました。



近年の研究では、式内名神大社の「天手長男神社」が当社であり、壱岐國
一宮であったとする説が有力となってます。
壱岐國一宮の称が、先程訪れた田中触の若宮社(現 天手長男神社)
に移った以降も当社を「一の宮」と呼ぶ通称は残っております。


 畳敷きの拝殿ない

 
  覆屋に覆われた本殿

    
     境内社


総社の事を教えて頂こうとしましたが、残念ながら社務所は無人。
仕方ないので、総社の鎮座する小山に戻り、今後を考えることにしました。




                                 つづく







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