近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
太閤秀吉公は、名護屋城築城にあたり、縄張りを黒田孝高、普請奉行を
黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高らに命じ、九州の諸大名を
中心に動員し、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。
名護屋城・本丸に上がってきました。


本丸御殿跡の発掘調査・遺構整備
- 明らかになりつつある、秀吉の御殿の様子 -
名護屋城跡の本丸の発掘調査では、これまでに本丸大手の石段・門跡・埋め込まれた旧石垣、全長56mに及ぶ長大な多聞櫓跡などが発見されています。
さらに、平成8年度の調査では、本丸中央部の南寄りの範囲から本丸御殿の一部と推定される、約300畳敷の広さを持つ大型の建物が発見され、本丸全体に御殿跡が良好に遺存している可能性が高まりました。
平成16年度からは本丸御殿跡の整備工事に伴い、新たに本丸中心部の北寄りにおいて、現在の芝生のすぐ下から当時の礎石や玉石敷が検出され、さらにそこから東西方向にも複数の建物跡が見つかるなど、御殿跡の遺構が広がっていることが明らかとなりました。
豊臣秀吉の築城した城には、名護屋城のほか、大阪城・聚楽第(じゅらくだい)・石垣山城・伏見城などがありますが、秀吉の御殿については、その建物が残っていないのは勿論、遺構が発見された例も名護屋城だけです。
またその遺存状態も比較的良好なため、桃山時代の御殿建築を研究する上でも全国的に注目されています。 -案内板より

現在は、広場となっているが、往時は御殿などの建物が所狭しと建っていた


「名護屋城址」碑
(東郷平八郎元帥 揮毫)

大手虎口から対角線上の一番奥に位置する「天守台」

名護屋城天守臺(台)址の碑


天守台
ここは名護屋城のシンボルである天守(閣)が建てられていた天守台である。「肥前名護屋城図屏風」には、 五層七階建て(地上6階、地下1階)の豪壮な建物が描かれており、その高さは石垣から約25~30mであったと推定されている。 発掘調査では、天守の基礎となる礎石(柱の土台石)と地階部分にあたる穴蔵の石垣、穴蔵への2か所の出入口等が発見されている。 礎石は16個が現存しているほか、礎石の抜き跡が6ヶ所で確認されており、不明の2個とあわせ、全部で24個の礎石が据えられていたと推定されている。 このうち、中央部分には心柱を支えた90cm程の礎石が4個置かれ、さらに穴蔵の内面石垣に沿って、60~80cm程の礎石が南北方向に7個、 東西方向に5個並んでおり、1階床下部分の梁を支える柱に伴うものと考えられる。なお、穴蔵の床面は玉石を敷き並べた土間であった事が分かった。 天守は、江戸時代に入って間もなく、この地が唐津藩に領有されるのに従い、破却を受け、天守台の石垣までも壊されたものと推定される。 江戸時代には、唐津藩によって古城を管理する古城番が城内に置かれるが、天守台の発掘調査でも、城番所に伴うと考えられる造成面や石列が発見されている。
-案内板より
本丸・天守台からの眺め

左・二ノ丸 右隅・遊撃丸

「遊撃丸」越しに見る馬渡島

左が松島、右が加唐島

加部島と呼子大橋

天守台から見た本丸跡(東西五十六間、南北六十一間の広さ)


本丸多聞櫓跡
本丸の西側と南側は、ある時期に築城時の石垣(旧石垣)をそのまま埋め込んで新しい石垣(新石垣)を築き、 大規模な拡張を行っていた事が明らかとなっている。その本丸西側に、新たに多聞櫓とそれに続く南西隅櫓が建てられた。 多聞櫓とは長屋状に造られた櫓で、主に武器や食料の倉庫として使われた。 ここでは当時の礎石がほぼ1m間隔(6尺5寸を1間とした場合の半間)で、南北に長く並んでいる様子が発見されている。 この礎石列は櫓の桁方向の柱を支える土台石で、本丸側の外壁にあたる。 また、この礎石列から西側に延びる梁方向の礎石列も確認されている。 石垣の破却によって壊された部分を復元すると、全長約55m、幅約8mの規模を持つ、長大な建物であった事が分かる。 また、櫓の周囲からは、廃城に伴う建物の解体の際に廃棄した大量の瓦片が発見された。 特に、南西隅櫓周辺では礎石を盛土で覆っている状況も確認され、櫓の破却の様子についても重要な資料を得ることが出来た。 -案内板より


本丸南西隅櫓跡
ここは本丸の南西隅にあたり、隅櫓の礎石が発見されている。 隅櫓は曲輪の隅部に配置され建物で、天守閣と同様に物見としての役目を持っていた。 発掘調査では、櫓の北壁と東壁にあたる礎石列の一部が確認されており、 全体の規模は南北約10m、東西約10mの広さで、二階建ての建物と想像される。 また、この建物の南東部では、隅櫓に付属する付櫓と思われる礎石列も発見されている。 この南西隅櫓では、廃城に際し、建物を解体した後で礎石をそのまま放置するのではなく、 その上に厚さ30cm以上も盛土を行い、隅櫓のあった範囲を完全に埋め込んでいた。 整備にあたっては、この破却の状況をそのまま保存することとし、 盛土の範囲を赤色舗装によって示している。 また、盛土に覆われて見えていない礎石については、 その上面に疑似礎石を置いて柱位置を示し、さらに界線によって建物範囲を表している。 -案内板より

本丸から南西方向を見る
(手前:伝馬場と二ノ丸の間に建つ櫓台 奥の曲輪は「弾正丸」)


本丸新石垣櫓台
ここでは、本丸の拡張に伴って新たに造られた櫓の跡を発見した。 この並んだ土台石の上に材木を横に置き、さらにその横木に柱を立てて建物を組み立てていたようである。 馬場側の新石垣が破却の為に壊されているが、建物の大きさは東西・南北ともに約6m(3間)と考えられる。 また、櫓の周囲の通路部分には、玉石も敷かれていた。 現在は、当時の玉石を保護する為に埋め戻し、その上に復元した状態で整備を行っている。 -案内板より
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つづく
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