~西へ~(284) 47日目③ 日本100名城 名護屋城Ⅲ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


太閤秀吉公の「唐入り」の際には、全国の諸大名が名護屋へ到着し、
20万5570あまりの兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、
総計30万7985兵で陣立てされた名護屋城址に着ております。



二ノ丸跡から城址北側の曲輪「遊撃丸」に進みます。

    

     

   遊撃丸
文禄2年(1593)に明国の講和使節(遊撃将軍)が滞在し、もてなしを受けた曲輪といわれている。 平成元年度と2年度(1989~1990)の石垣修理に伴う発掘調査で、門礎石・石段・玉砂利敷が新たに発見された。 特に船手門や天守台北側からは金箔瓦が出土している。 遊撃丸や天守台の石垣は、自然石を半分に割り、割った面を表面に見せる打ち込みはぎの石積みが顕著である。 石垣崩壊防止の為、危険箇所では解体修理や新しい石の補充や植栽を行い、 当時の石垣の様子が推定されるような整備をしている。 -案内板より


 東側(水手曲輪側)から見た遊撃丸(東西廿六間、南北二十四間)



天主の直下にある「遊撃丸」。明国の講和使節に対して、日本(秀吉公)の
権威を見せつけるには絶好の場所です。


 遊撃丸から見た城址北側・玄海灘


 水手曲輪(十五間四方)


本丸北面には、本丸から流れ出る水をこの(水手)曲輪に集める為の
石を使った水路の様な跡がありました。


 水手曲輪から見た本丸北門跡



本丸北門は坂虎口だったのだろう。現在は工事用の車道となっていた。



   

本丸を右に、巻くように狭い曲輪(犬走り)を進み、三ノ丸上段へ。


 左に三の丸 正面に本丸入口 


 本丸大手の概要
三ノ丸と本丸を結ぶ通路で、平成3年度からの発掘調査によって、大きな城門の礎石やL型に曲がった石段、石垣の上へあがる広い石段などの遺構や、門や櫓のものを思われる大量の瓦などの遺物が見つかりました。さらにここは数度の改築が行われており、現在の形が一度にできたのではないということもわかりました。平成5年度の石垣修理では、変化の最終時期を基本に、門礎石を加えて整備しました。 -案内板より


 本丸大手虎口
(往時は、左側の石垣の上に二層の櫓が建ち、正面には櫓門が建っていた)


     (小さい画像はクリックで拡大)




                                 つづく







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