近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
秀吉公の「唐入り」の前線基地として肥前の名護屋、勝男山に築城された
「名護屋城」に登城しております。


三ノ丸井戸跡
名護屋城内では当時のものと考えられる井戸が、各所に発見されているが、 三の丸の井戸はその中でも最も高所(標高76m)にある。 現在の深さは地面から2m程だが、後の時代に埋められている為、 当時どの程度の深さであったかは不明である。三の丸はそのほぼ全域が盛土である為、 湧水の深さまで掘っているとすれば、かなり深いものと推定される。 井戸は自然の割石を積み上げた石組で造られているが、 その平面形は南北1.9m、東西1.3mの楕円形をなしており、 名護屋城や陣跡で発見されたその他の井戸ではみられない特徴である。 また、石組に崩壊の危険性があった為、 南西側の一部を解体修理したところ、井戸の石材は表に見えている大きさよりも 2倍から3倍の奥行きがあり、さらに奥に向かって石尻を下げることで崩れにくく造られていた。 井戸は城にとって水の確保の重要なものであり、 城内では江戸時代以降の物も含め、多くの井戸がみられる。 現在、その分布は城域の南東側(三の丸・大手口)、 北東側(山里丸)、北側(水手曲輪・台所丸周辺)に限られるが、 江戸時代後期の絵図では、西側の二の丸にも井戸が描かれています。 -案内板より

三ノ丸から直接本丸に上がる事が出来ますが、二ノ丸に進みます。

三ノ丸西側の虎口。櫓台跡。


三ノ丸櫓台
この櫓台は、名護屋城で最大規模を誇り、その西側正面には城内最大の鏡石を用いて、 石垣を築いている。平成6年度の解体修理では、栗石の一部に大型石材を使用している事や、 石材を1尺(約30cm)単位の規格で割ろうとした矢穴跡を確認している。 その石垣の裏からは、宝筐印塔の一部も見つかっている。 また、馬場と三の丸を区画する位置(櫓台北側)では、門礎石と、その下層にこれより古い時期の石垣を発見している。 その礎石の上には、玉砂利・名護屋城期建物の瓦・崩壊した石垣の順に堆積していることから、 少なくとも①「古い石垣」期、②「門存在」期、③「門解体玉砂利敷」期があったと推定される。 なお、本丸側の石垣は、自然の岩盤を加工し、直接築いています。 -案内板より

右手に本丸石垣を見ながら「伝馬場」を進みます。

人為的に破却された石垣は、全体を壊したのではなく、
「破城のしきたり」に沿った、部分部分をV字型に壊す方法です。


本丸南西隅石垣
平成8年度に解体修理した前面の石垣は、復元すると10mの高さとなります。石垣の途中に横長で薄い石材を用いる特徴がありますが、この石材の大部分が割れたために、石垣崩壊が進んだと考えられます。
石垣解体時調査の結果、崩壊は石垣最下部まで達しており、残った石垣を安定させるために、前面にしていた石材を用いて、図のように積み直しを行いました。
また、この部分は自然崩壊だけでなく、人為的に破壊したと推定されるため、修理した石垣前面に覆土を行い、破壊当時の状況をそのまますることとしました。
なお、崩れた石垣の中から江戸時代の銭が出土し、破壊時期を推定する資料の発見がありました。-案内板より

二ノ丸跡(東西四十五間、南北五十九間の広さ)
二の丸の発掘調査では、そのほぼ全域が後の時代に削られてしまっていたことから、 掘立柱建物以外にはあまり遺構が発見されていない。 しかし、肥前名護屋城図屏風の中では、二の丸に桧皮葺き、 あるいはこけら葺きで入母屋造りの屋根を持つ複数の御殿風の建物や、 瓦葺きの門や塀が描かれているほか、 西側の石塁上には多聞櫓が建てられていた様子がみられるので、 他にも遺構が残存している可能性がある。 -案内板より


二ノ丸長屋建物跡
二の丸の発掘調査では、名護屋城の時代のものと思われる掘立柱建物跡が発見されている。 建物の構造は、地面に穴を掘って柱を建てたもので、調査では柱を据えるために大きく掘られた穴(掘形)と、 その内部では柱そのものの痕跡も見つかっている。 建物は3棟で、そのうちの2棟はいずれも幅約5m・長さ約20m、東西方向に細長い長屋状の建物であった事が分かる。 どちらの建物も内部は間仕切りの壁によって4つの部屋に分けられ、その規模・構造ともによく似ている。 さらに、この2棟の建物のすぐ西側では、幅約3m・長さ約6mの小型の建物も発見されており、 その内部には規則的に並ぶ8個の土壙(どこう…大きな掘り込み)が見られる事が特徴である。 これらの建物は、その配置状況から同じ時期に存在していた一連の建物群と考えられるが、 掘立柱の簡素な建物であることから、名護屋城存続時期の建物というより、 築城時の仮設的な建物であった可能性が指摘されている。 -案内板より


二の丸合坂(あいさか)


二の丸合坂(あいさか)
崩壊の危険性が高かった二の丸西側で調査を行い、解体修理の基礎資料とした。 発掘調査の結果、延長110mの西側石垣において、 「合坂(あいさか)」と呼ばれる相対する石段を3ヶ所で確認した。 これらの合坂は、遊撃丸と同様に城の西側の防御を重視した配置で、 塀の移動を容易にしていた事が窺える。また、崩壊した石段の様子から、 合坂は人為的にかつ徹底的に破却されている事がわかる。 平成11年度の発掘調査により、合坂の最下段で、 軒丸瓦や丸瓦を重ね合わせた瓦積みが整然と6列並んだ状況で確認された。 これら瓦群の上には、石材や裏栗石が堆積していたことから、 瓦を置いた後に、石垣や石段を破却したものと推定されている。
-案内板より

二の丸合坂から見た城址西側

船手門跡

二ノ丸北側石垣もV時に破却されてました
(奥の高台が本丸・天守台跡)

二ノ丸から見た本丸石垣
(小さい画像はクリックで拡大)
つづく
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