近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
昨晩やってきた「道の駅テント泊」組は、60代半ば前後の男性グループ
(含む女性1~2名)で、段ボールに入れたゴミを捨ててから出て行きました。


47日目、最初に訪れたのは、日本100名城の一つである「名護屋城址」です。


案内板を見て登城開始。




名護屋城は、豊臣秀吉が大陸への進攻を企図した際に波戸岬の丘陵
(標高約90mほど)を中心に170,000㎡にわたり築いた平山城の陣城です。
五重天守や御殿が建てられ、周囲約3km内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれ、
城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超える程繁栄した。

秀吉の死後、大陸進攻が中止されたために城は廃城となったとされており、
建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わります。
石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要
所が破却され現在は部分的に残るだけで、破却箇所が復元保存されてます。


大手口前井戸の概要
この井戸は、東側に隣接する石敷き遺構と南東方向に延びる2本の石組溝遺構を伴なっています。これは隣接する駐車場建設のための事前発掘調査で見つかりました。城内にはこの他6箇所の井戸が残っています。井戸の深さは約1.6mと浅いものの、地下水脈に重なっているのか、調査後しばらくは水がわきだしていました。この井戸から、朝鮮通宝や石臼、曲げ物などが見つかり、当時の生活を探る手がかりとなりました。 -案内板より


大手口の概要
城の正面入口といわれており、ここから南に向かって唐津に通じる「太閤道(たいこうどう)」と呼ぶ道がのびています。平成4年度の発掘調査で櫓台(やぐらだい)下の東側広場から掘立柱(ほったてはしら)跡が見つかりました。また前面の石垣からは、石垣改築の跡を見つけることができました。同年、櫓台を中心に崩壊危険箇所の石垣修理を行い、あわせて遺構保護をかねた、広場の植栽を行いました。
-案内板より


左手に部分的に壊された三ノ丸の石垣を見ながら進むと正面左右に
東出丸虎口の櫓跡。


東出丸の概要
東方に張り出した長方形の曲輪で、”千人枡”とも呼ばれています。大手口・三の丸警固のための侍詰所があったと推定されます。昭和63年度(1988)の発掘調査で、門礎石・玉砂利敷・石段が新たに発見されました。現在は、曲輪内部は、盛土・芝張でこれらの遺構を保護しています。櫓台と内側・外側の石垣危険箇所については平成2年度(1990)に緊急修理を実施し、併せて、大手口から東出丸への仮園路を整備しました。 -案内板より

東側から見た東出丸
(画像奥から手前に大手道を上がってきました)

東出丸から見た城下町方面(北東側)
正面手前の森が「徳川家康陣屋跡」とされてます。

大手道は、一旦東出丸に入り、左に大きく曲がる。

三ノ丸跡


三ノ丸の概要
本丸より一段低いところに位置する東西34間(68m)、南北62間(124m)の曲輪です。 現況では玉砂利敷や礎石と考えられる石が認められます。また、城内の高台では唯一の井戸跡が 残っています。肥前名護屋城図屏風には殿舎や公家風の人物が描かれ、当時の三ノ丸の様子が窺がえます。 大手口から本丸に通じる重要な曲輪で、本丸周辺を警固する侍が詰めていた場所と考えられます。 平成3年度(1991)に砕石を補充し仮園路の整備を実施しました。 -案内板より

三ノ丸から見た本丸石垣
(小さい画像はクリックで拡大)
つづく
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