近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
平安時代末期から瀬戸内海の村上水軍と並び賞された鎮西の水軍・
松浦党(上松浦と下松浦)の下松浦の居城、平戸城は、多くの城と同様に
廃藩置県後の廃城令により現存する狸櫓と北虎口門(搦手門)を残し、城の
建物は解体されました。現在は、模擬天守及び復興の見奏櫓・乾櫓・懐柔櫓
・地蔵坂櫓が昭和37年にRC造で復元されております。
その中のひとつ「沖見櫓(模擬天守)」ないの史料館を見学しております。


明治天皇御七夜産着
祐宮(さちのみや)誕生後の御七夜に孝明天皇から贈られた産着。身の丈約2尺3寸。絹の白羽二重で、両胸元に菊花紋章(16重弁)と松竹梅鶴亀がそれぞれ織り込まれている。 -案内板より


北虎口門扉(現存)
宝永4年(1704)、築城当時のもので、北虎口門のくぐり戸であった。この門は、南側に位置する大手門に対し、北側の守りのかなめであった。 -案内板より

「沖見櫓(模擬天守)」最上階(五階)からの眺め


「沖見櫓(模擬天守)」を下りて、本丸東側の見奏櫓(復元)へ。

見奏櫓(復元)最上階(二階)からの眺め


南から見た「見奏櫓(復元)」 乾櫓(復元)

二の丸に下りてきました。


中山愛子像
この像は、明治百年を記念し、明治天皇の祖母にあたる平戸出身の中山愛子姫(~1906)をしのんで、昭和43年(1968)に建立されました。制作にあたっては、愛らしい画風で親しまれ、多くの絵本を手がけた、平戸出身の童画家黒崎義介(1905~84)が下図を描きました。
-案内板より
中山愛子 文化十五年(1818) -明治三十九年(1906)
肥前国平戸藩主松浦清の十一女として平戸に生まれる。初名は千代姫、後に愛姫と改める。
姉の夫である園基茂の養女として中山忠能に嫁し、2男1女(忠愛・忠光・慶子)を産んだ。
慶子が孝明天皇に仕え、やがて皇子、祐宮親王(後の明治天皇)を産むと4歳時までその養育を任された。後、明治天皇の皇子明宮嘉仁親王(大正天皇)の養育にもあたっており、天皇2代の養育に関わった。

たばこ種子渡来之地

南側外郭 白浜御門(現 猶興館高校々門)

日本100名城スタンプ
平戸城(90)
城主松浦氏と城の変遷
平戸城は、平戸藩主松浦(まつら)氏の居城で、別名亀岡城とも呼ばれます。
平戸城主松浦氏は、始祖を嵯峨天皇の皇子源年(135融(とほる)とし、平戸にはその 子孫で、第11代峯(松浦)持(たもつ)が、嘉禄元年(1225)頃に平戸港北側に 「御館山城」を築きました。 以来、松浦氏は「御館山城」から、正平72)「白狐山城(びゃっこざんじょう)」、 慶長4年(1599)「日の岳城」、と変遷をくり返しながらも、平戸港周辺を基盤として 勢カを拡張し、戦国大名へと発展していきました。 豊臣秀吉に領知の承認をえました。
その後松浦氏は、慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」では、積極的な動向を表わし ませんでしたので、徳川政権に豊臣派の可能性を疑われに及び、慶長18年(1613) 築城して13年目の「日の岳城」を焼却して恭順の意を表したといいます。
焼失した日の岳城に替る居館として建設されたのが、元和6年(1620)頃に平戸港 の北側の「御館山城」跡の下方に「御館」を建設し藩庁としました。
約90年後の第5代藩主松浦棟(たかし)になって、亀岡に「平戸城」の再築を幕府 に願い出て、宝永元年(1704)再築に着手し、享保3年(1718)に完成しました。 概要としては、本丸、二の丸、三の丸、白浜廓、外廓からなり、二の丸に「御殿」が 築かれました。
再築にあたり平戸藩では、建築資金を藩領の一部地域の諸税をあて、または 藩臣の俸給、神社仏閣の維持費を削減するなどして、費用の捻出を行いました。
宝永元年より享保3年までの城築総入目銀高は1,180貫303匁8分2厘、延べ総 人夫数は554,371人でした。
現在の各櫓は昭和37年に平戸市が復元したものです。 -平戸城公式Webより
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つづく
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