~西へ~(279) 46日目⑥ 日本100名城 平戸城Ⅲ(本丸) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


平戸城二の丸に鎮座する亀岡神社に拝礼し、登城を続けます。

 
 平戸城(亀岡城)ご案内
平戸松浦氏は秀吉政権下の天正15(1587)年、63,200石の大名となった。
文禄慶長の役では約6,000の軍兵を率いて朝鮮半島を転戦し、帰還後の慶長4(1599)年、初めてここに『日の岳城』を築いたが、同18年に大火により焼失した。それからおよそ100年後の宝永元(1704)年、徳川幕府の許可のもと、亀岡城(平戸城)再築に着手。15年の歳月と人夫約555,000人、銀1,180貫余を費やし、享保3(1718)年に完成した。
総面積約54,000坪(18ヘクタール)最上部の本丸は海抜16丈2尺(約50m)、城郭部は白浜郭を含む外郭、三の丸、二の丸、本丸の4層からなる。
往時の木造遺構としては北虎口門と多聞櫓(狸櫓)が現存し、昭和35年より乾三重櫓、地蔵坂櫓、見奏櫓、懐柔櫓、沖見櫓(現天守閣)が再建された。 -案内板より



 北虎口門(搦手門)(現存)

     
   北虎口門(現存)から土塀(石垣)で繋がる「地蔵坂櫓(再建)」

    
  北虎口門(現存)の北東側、      「狸櫓」から見た北虎口門の前
  現存構造物「狸櫓(多門蔵)」
狸櫓由来記
 この建物の名称は正しくは「多門蔵」であるが、これまで誰も「多門蔵」とは呼ばず「狸櫓」とばかり呼ばれてきた。
 その由来については第三十五代藩主「松浦観中公熙(ひろむ)」が「亀岡随筆三十六」に記している。
 この狸櫓より100mばかりおりたところに「平戸の松浦家」があり、今も当時の狸の末裔と思われる一家が昔の約束通り旧家を護っている。もちろん扶持米(餌)もいただいているとか・・・ -案内板より


   

細い登城道を進み、左に曲がると「本丸門(再建)」です。

   

本丸門(再建)をくぐり、石垣と土塀に囲まれた上段が「沖見櫓(模擬天守)」

「沖見櫓(模擬天守)」ないは、松浦党ゆかりの品などの資料館となってます。


 鐶頭の太刀 国指定重要文化財
神功皇后の朝鮮出兵当時の武将の刀。
柄頭を環状にまるめ、水牛の角の鍔、竹を馬革で包んだ鞘を持つ鉄製直刀


    
   松浦典膳具足


   太刀・脇差 「銘 相州住廣次」      


 太刀 銘「肥前国平戸住土肥真了作 宝暦三癸酉のとし三月日」
 脇差 銘「土肥真了 貞享二年八月」
         


 刀 銘「垣本 正久」「寛政九年八月吉日」 

   
 鎧 平戸藩主、35代松浦熈(1806~1841)ご着用

       
             平戸城模型と武具の展示物


 かくれキリシタン神奉具



                                 つづく







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