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護國神社にて英霊に感謝の拝礼をして、
米国(の人種差別者とアカ)が犯した戦争犯罪の地に。


原子爆弾落下中心地

碑文
昭和二十年八月九日午前十一時二分、一発の原子爆弾が、この地の上空五〇〇メートルでさく裂し、一瞬、七三,八〇〇人の尊い生命を奪い、七六,七〇〇人の負傷者を出した。
同時に、家屋の焼失一一,五〇〇戸、全壊又は大破したもの六,八〇〇戸、
この地を中心として、二・五キロメートルに及ぶ地域が壊滅した。その惨状は筆舌に尽し難い。
ここに原子爆弾落下の中心地を示すためこの碑を建てる。
昭和三十一年三月 長崎市長 田川 務

今から72年前の夏、上空503mで、無差別大量殺戮兵器
・プルトニウム型原子爆弾が炸裂した。


浦上天主堂遺壁
爆心地から北東へ約500mの小高い丘にあった浦上天主堂は、1895年(明治28年)から建築に着手し、信徒たちの献金と労働奉仕により、1914年(大正3年)に献堂式を挙げるにいたった。そして、1925年(大正14年)に正面の双塔が完成し、大小の鐘が吊された。
東洋一の壮大さを誇った天主堂であったが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなった。この側壁は聖堂の南側の一部で、1958年(昭和33年)に新しい天主堂建設のためこの地に移築されたものであり、壁上の石像はザベリオと使徒である。しかし、風雨にさらされて傷みが進んだため、安全性を考慮して現在の形状のまま内部及び表面の補強を行った。
長崎市は原爆で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。
2001年(平成13年)3月 長崎市(原爆資料館) -案内板より


下の川の惨状
この下の川が流れる松山町は、1945年8月9日、午前11時2分、人類史上2番目の原子爆弾が炸裂した中心地である。
当時この町には、約300世帯1,860人余の一般市民が生活していた。松山町の上空約500mで爆発した一個の原子爆弾は、その直後巨大な火の玉となり、それにより生じた数百万度の熱線と放射能と巨大な爆圧は、あらゆるものを一瞬にして破壊し尽くし汚染した。
町内にいた者は、偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き全員が即死した。
壊滅した松山町は想像を絶する灼熱地獄と化し、惨渦の跡は黒こげの死体が累々と荒廃した焦土に横たわり、まさに地獄の終えんを思わせるものであった。
また、下の川上流の家屋解体作業に派遣されていた県立長崎工業学校の先生及び生徒も、ほとんど爆死した。
この地で被爆死された方々のご冥福をお祈りし、二度と再びこの惨渦が地球上に繰り返されないことを願って、この地に碑を設置するものである。
1945年(昭和20)8月9日、午前11時2分、この松山町上空で原子爆弾は炸裂した。町の東部を流れるこの下の川は、おびただしい死体で埋まっていた。 水を求めて川辺にたどりつき、そこで力尽きて息絶えた者、また、川まではい寄る途中で倒れ、焼死した人々の遺体が数多く並んでいた。その惨状を目撃した被爆者は次のように書き残している。
「下の川の、なかば崩れた松山橋を渡る時―ああ、その下には川の水も流れることもできないほどの人間の死体が埋まっているではないか。それはあたかも聖書に出ている世の終わりを想わせる。 この世の生き地獄図そのままだ。空は白雲一つない晴れわたった青空というのに、地上はなんという悲惨な光景だ。」(「長崎の証言」1970より抜粋)
現在の護岸には被爆当時の石が用いられている。これは1984年(昭和59)~1985年(昭和60)にかけての河川改修に伴ない、いまも原爆の熱線の跡を残した被災資料として、現在地に留め残したものである。
1997年(平成9)8月 長崎市(原爆資料館) -案内板より


被爆当時の地層
昭和20年(1945)8月9日、午前11時2分、米軍機B29(ボックス・カー)から投下されたプルトニウム原子爆弾(ファットマン)がこの地の上空約500mで炸裂、約15万人の死傷者を出しました。
原爆落下中心地にあたるこの地層には、原爆によって壊された家の瓦やレンガ、熱によって焼けた土や溶けたガラスなどが現在でも大量に埋没しており、被爆当時の悲惨な実相を示す被爆資料として、現地に保存・展示するものであります。
-案内板より






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