~西へ~(269) 45日目③ 長崎県護国神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


諫早市の眼鏡橋から長崎市に鎮座します「長崎縣護國神社」に。



場所は見当がついたが、入り口が分からず、周辺をグルグル。
2人の方に聞いたが、知らないと怪訝な顔で返答された。
 これまでこのような事はなかったのでチョットびっくり。

     

 長崎県護国神社の由緒
長崎県護国神社は明治2年12月初代長崎府知事沢宣嘉、長崎市梅ヶ崎の地に市社宇を建立し戊申の役にて戦死せし43柱の英霊を奉斎し梅ヶ崎招魂社という、またその後台湾の役の戦没者536柱を市内佐古の地に招魂社を建立し奉斎、これを佐古招魂社と称した。
昭和17年3月両社を併せ長崎県護国神社と改称し、護国神社の指定を受ける。
昭和19年10月現在の城山の地に本殿以下竣功し遷座祭を斎行するも翌昭和20年8月9日、原爆により不幸にも本殿以下悉く焼失し灰となり、仮殿を営み祭祀続けて昭和38年10月再建、本殿以下現在のたたずまいとなっています。
昭和44年、長崎国体にご臨席の砌、昭和天皇、皇后両陛下にご親拝を賜り、また幾度とない幣帛料のご奉納をはじめ厚いご皇室のご崇敬をいただいています。
-長崎県護国神社の栞より


         

戊辰の役(明治元年)以降、大東亜戦争に至るまで国難に
殉じた長崎県出身の英霊60,800余柱がお祀りされています。


 社殿

     
   袚詞(清袚の祈願詞)
 掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
=読み下し文=
 かけまくもかしこき いざなぎのおおかみ つくしのひむかのたちはなのおどのあはぎはらに みそぎはらえへたまいしときになりませるはらえどのおおかみたち もろもろのまがごと つみ けがれあらむをばはらえたまい きよめたまへともうすことを きこしめせとかしこみかしこみももうす
=祓詞の大意(現代語訳)=
 伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)が、死者の住む黄泉国(よみのくに)を訪ねて御身が穢(けがれ)たため、筑紫(つくし)の国の日向の橘の小戸(おど)の億原(あはぎはら)という浜辺で、水につかって身を清め禊をした時に誕生になった、祓戸の大神等、これらの神の御神徳によって、私達の犯した罪や心身の穢を祓い清めて下さいと、申し上げることをお聞き下さい。
 祝詞は万葉仮名を用いますが、書き下しにして振り仮名は現代仮名遣いにしました。


 拝殿ない

     

 長崎水交会之碑 (左)
  碑文
明治五年に発足し、昭和二十年に消滅した栄ある大日本帝国海軍時代の将兵及び海軍生徒により水交会を結成し、年二回会合して海軍時代の思い出を語り合った。
明治三十八年の日本海海戦の勝利の日から百年目にあたる平成十七年五月末をもって散会した。
帝国海軍の栄高なる精神を永久に伝えるため、本碑を建立するものである。
  平成十七年五月二十七日建立


 くらいど丸戦没者慰霊之碑 (右)
  碑文
=前略=八隻の船団は三隻の海防艦護衛の下に 昭和二十年一月二十日門司港を出向す 途中敵潜水艦の跳梁を○○ 黄海を経て大陸沿岸を南下せり 船脚の遅々たるなかにも将兵の士気益々旺盛なり 斯くて台湾海峡を横断し 愈々基隆上陸まで三時間の目前にして上陸準備を整え将に朝食につかんとす そのとたんくらいど丸は突如敵潜水艦の魚雷二発の連続直撃を受け 忽ちにして危急の事態に陥る 時に昭和二十年一月二十九日早暁午前六時三十分
その直撃弾による戦死傷者多数に上る 危ふく船体を離脱したる者は相互に呼応し 且つ負傷者を激励しつつひたすら救助船を待つも折悪しく激浪逆巻き 五体も凍る寒気のため救助意の如くならず 多くの者は痛ましくも海中に没し去り その戦死者及び海没死亡者の合計一、一〇七人に及ぶ(内船員五七人)
抑々戦闘に身命を賭する軍人として 又船と運命を共にせんと期する船員として 水漬く屍も厭わずと雖も その志半ばにして 敵に一撃だに報ゆるに至らず 身を荒海の底に没す 無念の心情誠に察するに余りあり
茲に生存の戦友及び有志相図り 各方面の支援を得て くらいど丸遭難戦没者の霊を慰め 同時にその悲愴なる献身の事跡を顕彰し 世界人類の恒久平和を祈念して 再び斯かる惨事を繰り返
さざらんことを 後世に語り継ぐべくこの碑を建立せり


     
        長崎県傷痍軍人之碑
碑文
この碑は戦争に従軍して傷痍の身となり物故した戦友の御霊を慰めると共に、あの様な悲惨な戦争のない世界が永遠に平和であるよう祈念して会員一同によってこれを建立する。
  昭和51年5月吉日   長崎市傷痍軍人会



          
            長崎県護国神社 御朱印


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。




                                 つづく







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