~西へ~(252) 43日目④ 日本100名城 人吉城Ⅲ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


人吉城は、球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に
築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は
山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用して築城された、
梯郭式の平山城であります。



人吉城御館跡から城址北側、球磨川側に向かいます。


 「球磨川」と「石垣(水ノ手門跡)」


 御館の曲輪・北西の角


 御館の曲輪、北側の高石垣

     
   史跡 人吉城跡
 人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江国(静岡県中部)相良の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が、建久9年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられています。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城とも言います。
 人吉城が史料に初めて出るのは、大永4年(1524)のことです。この頃(室町時代)の人吉城は、原城と呼ばれる城跡東南の台地上にあった山城で、素掘りの空堀や掘切によって守られていた城でした。
 室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、やがて芦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展します。しかし、天正15年 (1587)の豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡のみを支配することになり、以後は石高22,165石の人吉藩として明治4年(1871)の廃藩置県まで存続しました。
 人吉城が石垣造りの近世城として整備されるのは天正17年(1589)からで、何度か中断をしながらも、51年後の寛永16年(1639)に現在見られる石垣が完成しています。
 球磨川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城です。大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は、2,200メートルもあり、広大です。本丸には天守閣は建てられずに二階建の護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸の西側麓には城主の屋敷がありました。城の周辺の総曲輪は、上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれました。
 水の手門近くの『武者返し』と呼ばれる石垣は、幕末に導入された欧州の築城技術である槹出(はねだし)工法で築かれたものとして有名です。
 城内の建造物は、廃藩置県の後に取りこわされて残っていませんが、保存のよい石垣が人吉城の姿を今に伝えています。 -案内板より



 間米蔵跡(あいだこめくらあと)床束の礎石
水ノ手門西側に建っていた蔵。水の手門周辺には他に大村米蔵、欠米御蔵がある。
間米蔵は、間村の年貢米を納めたと考えられる蔵です。奥は水ノ手門跡。


 
  水ノ手門跡
 慶長十二(1607)年から球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られた。水運を利用するため、川に面した石垣には7箇所の船着場が造られ、その中で最大のものが「水ノ手門」である。
 この門は寛永十七年(1640)以前から幕末まで、人吉城の球磨川に面する城門であった。
 享保十三年(1728)、「御修理場御本帳写」によると門の規模は三間で、門の内側に板葺きの御番所、茅葺の船蔵があった。
 平成十一年度の発掘の結果、門は大きく壊されていたが、階段や排水溝が確認できた。川側にあった船着場は石張りの傾斜面となっていて、水位の増減に対応できるように工夫されていた。
 水ノ手門近くにある大村米蔵跡・欠米蔵跡の発掘調査では、「御用米」「免田納米」「上村納米」といった木札が出土していて、免田や上村方面から年貢米が球磨川の水運を利用し、この門から城内に運びこまれていたことがわかる。 -案内板より
 


 城内から見た「水ノ手門跡」


 武者返し(むしゃがえし)
御館北辺にあるこの石垣上には、長櫓があったが、文久2年(1862)の寅助(とらすけ)火事で焼失した。翌年、櫓は復旧されず、代わりに石垣を高くして、その上端にはねだし工法による「武者返し」と呼ばれる突出部をつけた。
この工法は、西洋の築城技術で、嘉永6年(1853)に品川台場(東京)で初めて導入され、五稜郭(北海道)や龍岡城(長野)等の西洋式城郭で採用されており、旧来の城郭で採用されたのは人吉城のみである。 -案内板より



  大村米御蔵跡・欠米蔵跡
 人吉藩では藩内12ヶ所に米蔵を置き、このうちの間(村)蔵と大村蔵は、それぞれ城内の水の手口と堀合門東方に1棟づつあった。大村米御蔵(西側礎石群)には隣接して欠米御蔵(東側礎石群)があった。発掘調査で「御用米」「免田納米」「上村納米」と墨書した木札が出土している。右手の門は堀合門である。 -案内板より


  御下門跡(おしたもんあと)
御下門は「下の御門」とも呼ばれ、人吉城の中心である本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口に置かれた門である。大手門と同様の櫓門形式で、両側の石垣上に櫓をわたし、その中央下方を門としていた。門を入った奥には出入り監視のための門番所があった。 -案内板より






                                 つづく







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