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日本100名城のひとつ 人吉城に登城します。


日本百名城 史跡人吉城(繊月城)
人吉城(ひとよしじょう)は熊本県人吉市麓町にある平山城跡。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。
人吉城跡は、鎌倉時代初期に人吉庄の地頭となる相良氏初代の長瀬が修築したと伝わり、その時出土の三日月文様の石から「繊月城」とも呼ばれています。相良氏歴代の居城として明治4年(1871)の廃藩置県まで使用されますが、本格的な築城は12代当主為続の時代の文明2年(1470)頃とみられ、シラス台地の崖を天然の城壁とした城でした。
天正17年(1589)、20代当主の長毎が石垣工事に着手し、寛永16年(1639)の21代頼寛の時に球磨川に面した石垣が完成し、その後に角櫓や多門櫓などの建築工事をへて、近世城郭としての人吉城が完成しました。
中世から近世、明治初期までの長い期間、一つの武家の居城として存続した城郭は人吉城の外に例がありません。平成18年(2006)4月6日、財団法人日本城郭協会は「日本城郭史を知るうえで欠かせない城郭」として、人吉城を日本100名城の一つに選定しました。 -案内板より

西側の大手橋を渡り、大手門から登城しました。

大手橋上から見た「大手門跡」

大手橋上から見た「胸川」と「大手門多聞櫓(復元)」

大手門多聞櫓から続く(奥の)長塀2ヶ所には「石落とし」が設置されている。

大手門多聞櫓(復元)

大手門櫓跡
胸川御門とも呼ばれた大手門は、城の正面入り口となる重要な場所であったので石垣の上に櫓を渡して下に門を設けた。さらに門前の通路は鍵形にして枡形に造り、また、門の北側には多門櫓を建てて、外濠となる胸川の対岸に大手橋を架けて防御している。門内には番所を置いて監視させている。
大手門櫓は正保年中(1644~1648)に建てられ、享保五年(1720)に造り替えられ、明治初期の払い下げで撤去された。撤去前に撮影された写真を基に描かれた油絵によれば梁間2間半(5m)、桁行12間(24m)の瓦葺き切妻型の櫓門で、壁の上部は漆喰塗り、下部は板張りとしている。大手門櫓と多門櫓の間には、長さ3めmの瓦葺きの板塀がつく。 -案内板より

角櫓(復元)と、角櫓から多門櫓まで続く長塀(復元)
角櫓は、球磨川に面した北西隅に建てられた、
本瓦葺き入母屋造り平屋構造の建物。漆喰大壁、黒塗り下見板張。

御館西側の石垣


御館入口
御館は代々の城主が居住していた所で、南を正面入口とする。前には溜池があり、多脚式の石橋を渡った所に本御門が建ち、その内側右手に門番所を置いて出入りの監視をしていた。
石橋は、明和3年(1766)に山田村の石材を切り出し、領内各各村に割当して運搬させ建設されたが、各村民は作業割当当日の翌日に交代で踊りを披露している。
平成5年3月 人吉市教育委員会 -案内板より
人吉城跡 県指定重要文化財
橋長:17.0m 橋幅:5.5m 五径間桁橋 架設:明和3年(1766)

御館前の溜め池(内堀)
石橋をわたり、御館跡(相良護国神社)に向かいます。
つづく
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