~西へ~(249) 43日目① 原城望岳苑 予科練留魂の碑 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら





43日目の夜明けです。



何の光でしょうか。



日本の田園風景は見ていて落ち着けます。



本日最初は、望岳苑「予科練留魂の碑」へ。

   

少々荒れた階段を上った、雑草の中に碑はありました。

   
   予科練留魂の碑
 碑文
大東亜戦争の劈頭ハワイ・マレー沖海戦に航空主兵時代の到来を実証した。
帝國海軍は弥々航空兵力の増強充実に力め 国内各地に続々練習航空隊が開設せられた 人吉海軍航空隊は其の一つ 昭和十九年二月 球磨郡木上村川辺球磨の清流に裾を洗わはるる高ン原の大地に開隊 第十八連合航空隊に属し全国の猛烈なる志願者より選抜採用された 飛行予科練習生に整備教育を施し二十年七月解隊迄に凡そ六千の航空要員を実施部隊に送り出した。
顧れば此の一年半の当隊の活動は 戦時の速成教育から九州各基地への防衛協力戦備強化作業の推進 更に教育中止後は佐世保鎮守府麾下第二十二連合航空隊に編入せられて 九州各地区の防備に任ずる等 当時の戦局の推移をそのままに反映したものであり 其の執れにも目覚しい成果を挙げたが 終戦と共に其の施設は今僅かに遺る滑走路の他は跡形もなく消え去った。
隊員の当時の真剣な意気込は青春の総てであり 山紫水明の風土 純朴なる人情と共に今も忘れ得ざる所 戦後転じて祖国復興の担ひ手となり苦難の道を歩いて二十六年 今繁栄日本を見る
往年ここに学びし予科練有志 人吉会を結成し相謀って此の地に記念碑を建つ 曾て此処に培われし敢闘精神を平和の戦士として 倍々祖国の進展に活かさんことを期して也
   昭和四十六年八月  元人吉海軍航空隊司令 田中千春撰



海軍中尉 半田亘理 追悼
碑文
明治四十四年福岡県久留米市に生まれる 昭和三年海軍を志し佐世保海兵団入団
八年第十九期操縦練習生卒
戦闘機専修大村・横須賀各航空隊 空母龍驤勤務等を経て
十二年八月空母加賀に乗組み 中支上海戦線に出動
九月七日 三機で艦上航空機隊を掩護中大胡上空で
カーチス ホーク七機と遭遇 一機を撃墜
ついで九月二十日 南京空襲で三機を撃墜
十三年六月 第十五航空隊に転じて南昌空戦に参加 
十一月帰還するまでに更に二機撃墜
当時空戦の主流であった単機格闘戦の名手と謳われ(苔で判読不能)
その後 蒼龍 飛龍乗組(苔で判読不能)
十五年十一月 海軍航空兵曹長に昇進 除隊したが即日召集
太平洋戦争起るや(苔で判読不能)ラバウル ニューギニア各地を転戦
零式戦闘機を駆って敵七機を撃墜 海軍戦闘機隊長の華と称せられたが
結核に冒されて十七年十二月本土送還
人吉(苔で判読不能)改めて定住し療養に専念する傍ら
人吉海軍航空隊の高原飛行場を望見しては
再び操縦桿を握り後進の指導に挺身する日を夢みつづけた
しかし 国破るるに及んで自らも立つ能わず 二十三年十月二十一日
祖国の再建を祈念しながら遂に病没 性豪放 交誼に厚く 年三十七歳
勇者逝きて三十五年 高原を望むこの地に追悼の碑名を刻し
在天の霊とともに恒久の平和を希求することいよいよ切
昭和五十八年八月  渋谷 敦撰文  芳賀長雄謹書



 望岳苑  説明版
これより東方八キロメートルの地 高原(たかんばる)に元人吉海軍航空隊があった 日夜猛訓練にはげんだかつての飛行予科練習生たちは 風光明媚 山紫水明のこの地を愛し 当時親代わりの温情で接した人吉市民の豊な厚い人情を忘れず 昭和四十六年八月若き日の記念として「予科練留魂の碑」を原の城の丘上に建て望岳苑と名づけた
今ここに足を運び美しい山々を望むとき 若干十四、五才であった彼等が何故に身を挺してこの国土を守らんとしたか御理解できるものと思う
   留魂の碑保存会(予科練人吉会)





全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。




                                 つづく







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