近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
新田神社が鎮座します神亀山の5分の4が「陵墓(可愛山陵)」の領域で、
全国でも珍しく、陵墓と神社が一体となっております。


薩摩川内市指定文化財 昭和46年11月1日指定
新田神社の大楠
クスノキは西日本に多く見られますが、自然の山林にはあまり見られず、人里周辺や神社などに多く見られます。樟脳(いわゆるカンフル)の原料となり、古来より防虫や鎮痛などに利用されるほか、丸木舟の材料にも使用されてきました。
このクスノキは、根回り13.3m、目通り(幹回り)9.9m、枝張りが東西17.2m、南北は15.5m、高さ約20m余りで、根元近くは空洞になっています。樹齢2000年ともいわれていますが、年輪成長平均率からすると約650~800年と推定されます。
地上2mのところに大穴牟遅神(おおあなむちのかみ 大国主の若き頃の名)の木造が彫刻してあります。この木造は、島津家の家老で、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、島津義弘の影武者となり討死にした阿多長寿院盛淳(あたちょうじゅいんもりあつ)が自ら彫り、奉納したものと伝えられています。
与謝野鉄幹・晶子夫妻が新田神社に参拝に訪れた際、詠んだ歌が残っています。
"可愛の山の 樟の大樹の 幹半ば
うつろとなれど 広き蔭かな" 与謝野鉄幹
平成21年12月 薩摩川内市教育委員会 -案内板より

社殿(回廊付き勅使殿)が見えてきました。

ご祭神は、
(本祀)一座:天津日高彦火邇邇杵尊
(配祀)二座:天照皇大御神、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神をお祀りしておりました。


子抱き狛犬


勅使殿

勅使殿ない

勅使殿の天井絵

御由緒
新田神社は神亀山(しんきざん)という亀の形をした小高い山の上にあります。まつられている神様は天皇様の先祖にあたるニニギノミコト様を中心として、ミコト様のご家族の神様、食物の神様、山の神様などたくさんの神様がおられます。
古い言い伝えによりますと、遠い神代の昔、高天原(たかまがはら)にいらっしゃいましたお日様の神様アマテラス大神様が孫にあたるニニギノミコト様に私たちの住んでいる地上の世界を治めるようにお命じになりました。その時に稲穂をいっしょにお持ちしてお米をつくるようにおっしゃいました。「齋庭稲穂の神勅(ゆにわのいなほのしんちょく」といいます。
そこでニニギノミコト様はたくさんの神様をおつれになり今の鹿児島県の霧島にあります高千穂(たかちほ)の峯におりられました。「天孫降臨(てんそんこうりん)」そこではじめてお米をお作りになり、続いて同じく今の鹿児島県の加世田市にあたる笠沙宮(かささのみや)にうつられ、山の神様の娘であり大変美しいコノハナサクヤヒメ様と結婚されてその後、海路東シナ海を北上されて川内の地にこられました。
川内にお着きになられたここギノミコト様は、この地に立派な千台(うてな)すなわち高殿を築いてお住まいになりました。川内(せんだい)の名はこの「千台」からきています。
やがてニニギノミコト様はおなくなりになられて、お墓がつくられました。これが今の「可愛山陵(えのさんりょう)」です。そしてそのニニギノミコト様をおまつりするようになったのが新田神社のはじまりといわれています。
もともとは社殿がなくお山そのものが神社であったとも伝えられ、新田神社の「新田」という名前には、ニニギノミコト様が川内の地に川内川から水を引いて新しく田んぼをおつくりになったという意味がこめられています。
新田神社の名前が古文書ではじめてでてくるのは平安時代の末頃で、当時は「新田宮」と称していました。このころには薩摩国(さつまのくに)の守り神様として朝廷や幕府からも深い信仰をうけていました。
今から八百年程前、承安三年に火災があり、それまでお山の中腹にあった社殿が焼け失せてしまいましたが、この時も朝廷や幕府に伺いをたてまして現在の山頂に再興されました。島津氏が薩摩国に封じられましてからは歴代藩主の崇敬は殊に厚く、四百年前の慶長年間に島津義久公により現社殿のもととなるものが造られました。
明治時代にはいりましてからは皇室の御崇敬を賜り、明治十八年に国幣中社となり、大正九年に昭和天皇様が皇太子の時御参拝いただきましてより皇族の方の参拝が十度におよんでいます。 -参拝の栞より

社殿は「山」字になり、中央奥より、本殿、拝殿、舞殿、勅使殿が
一直線に並び、手前、左右に回廊がつく
本殿は嘉永三年(1850)建立


回廊ないの額
左右回廊の突き当りには摂社が鎮座します。
本殿の向かって左脇
武内宮 ご祭神:彦太忍信命(孝元天皇の皇子で武内宿禰の御祖父)
本殿の向かって右脇
四所宮 ご祭神:彦火火出見尊・豊玉姫尊・鵜草葺不合尊・玉依姫尊

薩摩国一宮 新田神社
御朱印
可愛山陵(えのみささぎ) (天津日高彦火瓊瓊杵尊の陵)に拝礼して、

神亀山を下り、薩摩国総社 守公神社(現在は、新田神社の境外末社)へ。

(向かって左)守公神社 ご祭神:樋速日神
薩摩国総社と伝わる神社で、隣接する九樓神社とともに
「九樓守公神社」とも称されます。
(向かって右)九樓神社 ご祭神:甕速日神
これまでも無人社の「総社」に参拝しましたが、此処、薩摩国総社は、
新田神社の境外末社となっており、綺麗に管理はされているが、小学校の
校庭の隅に鎮座しており、少し寂しい気持ちになりました。
新田神社で、御朱印の有無をお聞きしましたが、ないとの事。
最初に聞いた巫女さんは、「九樓守公神社」の事も「総社である」事も御存じないようであった。
つづく
当ブログの無断使用は禁止です。
メッセージにて確認をして下さい。その上で、
文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。